庄元資(しょう・もとすけ) ?〜1502?

細川京兆家(管領家)の被官。庄駿河守の子。幼名は鶴若丸。備中国出身。伊豆守。
庄氏の惣領家は備中守護代を務める家柄であったが、この元資は細川京兆家に内衆として仕える庄氏庶流の出身である。
文安6年(1449)2月22日付の『洞松寺文書』に慧稠(父・駿河守の法名か)と鶴若丸の連名で名が見え、康正2年(1456)8月、父の死去を受けて家督を相続した。
応仁の乱に際し、東軍(細川氏)方の小早川元平の軍功を、細川政元を後見する細川政国に取り次いでおり、文明6年(1474)4月に細川氏と山名氏が和睦した後も続けられていた安芸・備後国境に位置する高山城をめぐる戦いを文明7年(1475)4月に鎮めさせるなど、細川京兆家の内衆として中国地方の申次の地位にあったようである。
文明11年(1479)12月、丹波国に下向した細川政元が被官の一宮宮内大輔に拉致されるという事件が起こり、この奪回のために出陣。翌年3月には一宮氏を討ったが、この戦功をめぐって、ともに出陣していた安富元家と相論になっている。
文明15年(1483)の備前国福岡合戦松田元成山名俊豊方として参陣し、松田方が勝利を得ているが、元資の子の右衛門四郎が討死したという。
文明16年(1484)12月までには青源寺の僧であった兄とともに相国寺領の摂津国兵庫中荘を押領しており、翌年には幕府からこれを停止するよう命じられているが、従わなかった。おそらくは主君・政元の内意を得てのことであろう。
長享元年(1487)からの鈎の陣には、自身は従軍しなかったが、子の春資を政元に随行させている。
経緯は不詳であるが、延徳2年(1490)8月には備中国で安富元家と抗争しており、安富方に備前国の浦上則宗が合力している。そして延徳3年(1491)12月には備中守護の細川勝久も元資の追討に出陣している。
この抗争は庄方に上野玄蕃頭元氏・香西五郎左衛門尉が与し、安富方には浦上則宗・細川勝久が味方するという大規模なものになり、延徳4年(=明応元年:1492)3月下旬には庄方が敗れて没落した。
同年6月前後に至って勝久と和議を結んだが、明応3年(1494)8月までには再び備中守護家と抗争に及んでいる。今度の蜂起は、明応2年(1493)から翌年の間に備中守護が代わり(新守護は細川駿河守か)、備中守護家が元資ら京兆家被官の所領を押領していたため、これに反発して決起したものと思われる。
この内乱は文亀2年(1502)まで続いたようだが、元資も同年に死去したと目されている。