渋川義鏡(しぶかわ・よしかね) ?〜?

足利氏の一門で、九州探題・渋川義俊の子。渋川満頼の孫。右兵衛佐・左衛門佐。
下総国古河に在って反幕府的な行動を取る古河公方の足利成氏に対抗させるため、室町幕府8代将軍・足利義政の庶兄である足利政知が新たな関東公方として下される際、その補佐役に任じられた。
長禄元年(1457)末に京を発った政知に随行し、翌長禄2年(1458)の夏頃に関東(あるいは伊豆国)に入部。
幕府は政知を旗頭に奥州や甲斐・信濃の軍勢を動員させて古河公方勢の鎮定を企図していたが情勢は捗々しくなく、関東の上杉氏一派や越後国上杉氏などとも結んで勢力拡大を図るが、長禄3年(1459)10月の上野国海老瀬口・羽継原の合戦で敗れた。
こうした戦況を受けて義鏡は長禄4年(1460)4月に被官の板倉頼資を上洛させて幕府と協議し、遠江国を守護領国とする斯波氏を主力に据えることが決したようだが、実効性はなかった。
寛正2年(1461)8月に至って将軍の足利義政が斯波氏の家督に、斯波義寛に代えて義鏡の子・義廉を入嗣させる措置を取ったため軍勢の補強の実現が期待されたが、経緯は不詳ながら義鏡は寛正3年(1462)の後半頃に失脚したようであり、義廉も文正元年(1466)には斯波義敏との内訌を起こしたため、本来の目的であった足利政知方への軍事力増強は果たせなかった。
その後の義鏡の動向は不詳である。