小山田上杉氏・上杉定重の子。通称は三郎。左馬助。
応永26年(1419)5月に扇谷上杉氏当主の上杉持定が没し、家督は弟の持朝が継いだが未だ幼少であったため、従兄弟にあたる定頼がその名代となって家政を差配した。系図には「扇谷名代」とされるが、その反面で上杉氏定(持定・持朝の父)の子としても記されており、実質的に扇谷上杉氏の家督であったと認識される。
鎌倉公方・足利持氏に仕えて重用され、応永27年(1420)12月には上総守護としての活動が見える。この時期の上総守護は宇都宮持綱であったと目されているが、持綱は幕府から任じられた守護、定頼は持氏が幕府に対抗して立てた守護として見ることができる。
応永29年(1422)の小栗満重討伐に大将として出陣し、翌応永30年(1423)8月に攻略。その後の宇都宮持綱討伐にも一手の大将として出陣した。また、同年12月には安房国内における所領問題を差配していることから、安房守護職に在ったことが確実である。
正長2年(=永享元年:1429)(一説には永享7年:1435)6月には持氏の命を受けて常陸国の山入祐義を攻めるために出陣した。
この宇都宮持綱・小栗満重・山入祐義はいずれも京都扶持衆と称される反持氏の領主であり、その討伐の大将格に起用されたことからも、定頼に対する持氏の信任の厚さがうかがえる。この定頼の起用と上杉禅秀の乱による犬懸上杉氏の衰退とが相まって扇谷上杉氏の存在感は増大し、山内上杉氏に次ぐ威勢を示すことになったと言えよう。
これ以降の定頼の事績は不詳で、永享5年(1433)より上杉持朝に当主としての活動が見えるようになる。しかし、永享の乱後に出家して諸国を巡歴した上杉憲実に同行した「道悦」という人物の俗名が「上杉三郎重方」とされ、定頼の事績の一部がこの重方と重なることから、道悦と重方と定頼は同一人物とする見解がある。だが、道悦の登場する史料には信頼性が高いとは言えないものが多く、重方の存在自体にも疑義があるため、不詳といわざるを得ない。