山内上杉顕定に叛旗を翻し、独立した長尾景春の勢力が強大化することを警戒した扇谷上杉定正の家宰・太田道灌は、顕定・定正を迎えに上野国に向かい、文明9年(1477)5月13日、ようやく五十子の陣に両上杉を復帰させた。
ついで道灌は長尾景春おびき出しの策を取り、武蔵国榛沢(はんざわ)に出陣していた景春の軍勢と、景春の本拠・武蔵国鉢形城との間に兵を入れることによって分断することに成功したのである。
慌てて鉢形城に戻ろうとした景春勢と道灌の軍勢が、用土原の針谷というところで衝突し、この戦いは道灌の圧倒的勝利に終わった。