都塚(みやこづか)今諏訪(いますわ)の合戦

永正16年(1519)8月、甲斐守護の武田信虎はそれまで政庁としていた川田館を廃し、躑躅ヶ崎館の新造に着手した。この躑躅ヶ崎館は同年12月半ばまでには政庁としての機能を備えるまでになったようで、12月20日より信虎や信虎夫人が引っ越しているが、信虎の居館が完成したのは翌年11月末頃のようである。
信虎は移住に際し、家臣のみならず有力国人領主にも躑躅ヶ崎への移住を命じた。これは、直臣ではない国人領主を地盤から切り離して被官化しようとする意図が明白で、翌永正17年(1520)5月には、かねてより信虎と距離を置いていた栗原信友・今井(逸見)信是・大井信達の三氏が公然と信虎に反発する姿勢を示し、甲府から退去して自領へ帰るという事態となったのである。

栗原氏は武田信成の子・十郎武続が山梨郡栗原郷に住したことに始まる武田氏の庶流で、信虎の父・武田信縄とその弟・油川信恵が明応年間(1492〜1501)に争った際は栗原信遠が信恵方に与し、その信恵が永正5年(1508)10月に信虎と争った際にも栗原信種が信恵方として見え、武田惣領家とは対抗関係にあったことがわかる。
今井氏は逸見氏、浦今井氏とも称され、巨摩郡江草城(別称を獅子吼城か)に拠る武田氏庶流で、武田信満の子・信景を祖とする。永正16年初頭から4月頃まで信虎と抗争していた。その後に和睦してはいるが、不満の残る条件だったのであろうか。信虎は、この今井氏との抗争が一区切りついたのちに躑躅ヶ崎館建造に着手したことになる。
大井氏もまた武田信武の子・信明を祖とする武田氏の庶流であるが、永正12年(1515)10月に信虎から居城を攻められるも撃退したが(上野城の戦い)、翌年に信虎に服属したという経緯の持ち主である。
こうした因縁のある3人の反発に遭うことになった信虎は、板垣・曽禰氏らに命じて鎮圧にあたらせたが、史料に「同時三処一戦」(『塩山向嶽禅庵小年代記』)、「一日ニ三方ノ合戦」(『王代記』)とあるように、兵を三方に分かってほぼ同時に攻勢に出たようである。

信虎軍の一手は6月8日には栗原勢と山梨郡の都塚で戦い、これを破った。そしてそのまま信友の居館まで攻め込んで火を放った。敗れた信友は武蔵国秩父に逃れているが、のちに許されて帰参している。
10日には巨摩郡の今諏訪で大井・今井氏と戦って信虎軍が大勝を収め、大井・今井の両氏は降伏したというが、信虎方では曽禰大学助が戦死している。
こうして栗原・今井・大井氏らによる反抗はあえなく鎮定されたが、これは、この時期すでに信虎が同時作戦を展開できるほどの軍勢を動員できる勢威を持っていたということであり、信虎の権力が強大なものであるということを示す一戦となったのである。