永正4年(1507)に父・信縄の死没を受けて武田氏家督と甲斐守護職を継承した武田信虎は、翌永正5年(1508)に信虎の家督相続に反発する油川信恵や敵対する一族を滅ぼして地位を固め、永正7年(1510)春頃には反信虎派に与していた都留郡の小山田(越中守)信有を服属させて内乱を収めた。
しかし永正12年(1515)、甲斐国西郡の大井氏が駿河・遠江守護の今川氏親と結んで反旗を翻す。大井氏は武田信武の三男・信明が西郡の大井荘を領有し、この地名を名字にしたことに始まる。信明のあとは春明・春信・信家・信房・信包と続き、永正期には信達・信業父子の代で、西郡における最も有力な国人領主であった。
永正12年10月17日、信虎は軍勢を率いて大井氏の居城である上野城を攻めた。
寄せ手の武田軍は大軍であったが、城の周囲の地形を把握していなかったとみられ、深田に馬を乗り入れてしまって身動きが取れないところを大井勢に襲われ、多くの戦死者を出す大敗を喫した。
この戦いで武田方の小山田大和守・今井右衛門信房・於曾(おぞ)某のほか、板垣伯耆守・飯富道悦・飯富源四郎・甘利某ら大将格の戦死者は20騎におよび、そのほか将兵も百とも2百ともいわれる将兵が討ち取られるという、武田軍の一方的な敗戦であった。