大永7年(1527)に駿河・遠江守護の今川氏輝と和睦して後顧の憂いを除いた甲斐国の武田信虎は、同年6月より信濃国佐久郡の伴野氏の要請を受けるかたちで信濃国への出兵を開始する。
このときは伴野氏を圧迫していた大井氏らとの間に和議が結ばれて実質的な戦闘はなかったようだが、信虎は翌享禄元年(1528)8月、再び信濃国へと出陣した。今回は諏訪上社・諏訪頼満との抗争に敗れて没落していた諏訪下社・金刺昌春の支援を名目にしてのことである。金刺昌春は大永5年(1525)4月に信虎を頼って甲斐国に入り、甲府に屋敷を与えられるなど保護を受けていた。
8月22日に甲斐・信濃の国境に軍勢を進めた武田勢は26日には諏訪郡の青柳で諏訪頼満・頼隆父子の軍勢と対峙し、信虎は「シラサレ山」に布陣したという。
そしてこの月の晦日に戦端は開かれ、朝には富士見高原の神戸で戦って武田勢が勝利したが、夕方の境川での合戦では武田勢が敗れ、武田方では荻原備中守など2百人ほどが戦死したという。