天文14年(1545)4月17日、高遠頼継の拠る信濃国伊那郡高遠城を攻略(高遠城の戦い)した武田信玄は、その直後の20日より藤沢頼親の拠る伊那郡福与城(別称:箕輪城)の攻囲にとりかかった。
この天龍川を要害とした福与城に頼親は将兵1千5百余の将兵を率いて籠城し、さらには頼親の義兄で信濃守護の小笠原長時が頼親救援のために天龍川西方に位置する福与城の支城・龍ヶ崎城まで出張ったため武田軍も迂闊に攻めかかることができず、戦況は膠着した。
武田軍は包囲を続けたまま城へ流れ込む水の手を切るなどして圧迫を続けていたが、5月22日に至って武田軍に今川義元・北条氏康から各3百の援兵が到着したことで戦況が動く。
信玄は6月1日、板垣信方と今川軍援兵を龍ヶ崎城に差し向け、わずか1日で陥落させたのである。これを知った福与城方は動揺し、10日には武田方武将・小山田信有の勧告を受けて和議を申し入れ、翌日には頼親が弟を人質として差し出して頼親と高遠頼継の両将は降伏したのである。
50日以上に亘って抗戦を続けた福与城は、その日のうちに焼かれたという。