信濃国伊那郡高遠城主の高遠頼継は、甲斐国の武田信玄からの誘いを受け、同族でもある諏訪頼重を天文11年(1542)7月に連合して攻めた(桑原城の戦い)。降伏した頼重は自害させられ、その遺領である諏訪郡は宮川を境として西側を頼継が、東側を信玄が領するところとなったが、諏訪郡全域の支配を目論む頼継は藤沢頼親と結んで武田領の諏訪郡東域に侵攻。しかし武田軍に撃ち破られて高遠城に敗走したばかりか、諏訪郡西域の所領をも失うことになった(宮川の合戦)。
天文13年(1544)10月には武田軍が藤沢頼親の拠る伊奈郡福与城(別称を箕輪城)を攻めるも、落とし得ないまま翌月に帰国し(福与城の戦い)、同年12月には頼継が諏訪郡に侵攻して放火するなどの抵抗を続けたため、信玄は高遠勢を一挙に殲滅するために天文14年(1545)4月11日、7千の軍勢を引き連れて甲府を出陣した。
武田軍は14日に信濃国諏訪郡の上原城に入り、翌15日には杖突峠に布陣。その後に高遠城攻めが始まったとみられるが、17日に至って頼継が城を捨てて逃走したため、高遠城は自落した。
翌18日に信玄は高遠城に入城し、20日には頼継に与同していた藤沢頼親の福与城を攻めるために進発している。