小笠原長時(おがさわら・ながとき) 1514〜1583

甲斐源氏の流れに連なる信濃国の守護大名。府中小笠原氏・小笠原長棟の長男。幼名は豊松丸。通称は又二郎。右馬助。従五位上・大膳大夫・信濃守。湖雪斎と号す。
天文10年(1541)頃に父・長棟から家督を譲られ、以来、信濃国林城主に拠って筑摩・安曇・伊那郡域に勢力を張っていたが、天文17年(1548)7月に甲斐国の武田信玄との勝弦峠(塩尻峠)の合戦に敗れてから俄かに衰え、天文19年(1550)7月に武田軍の圧迫を受けると林城は自落したといい、村上義清を頼って逃れた。越後国の上杉謙信を頼ったともいう。
その後は安曇郡域を基盤として武田勢への抵抗を続けたが抗しきれず、実弟で伊那郡鈴岡城主の小笠原信定を頼るなどしたが、天文23年(1554)8月に同城が攻略されると伊勢国を経て上洛し、縁故のある三好長慶のもとに身を寄せた。
まもなく将軍・足利義輝の知遇を得て摂津国芥川城に移ったが、ここも永禄11年(1568)に織田信長に攻められて落城したため、退去した。その後の数年は畿内を流浪したと見られているが、再び越後に赴いて謙信を頼り、捨て扶持として5百貫を与えられた。
謙信の死後は会津の蘆名盛氏のもとに寄食していたが、天正11年(1583)2月25日、家臣に殺された。70歳。法名は麒翁正麟長時院。
信濃の名族の名に恥じない勇猛な武将であったが、配下に対しての求心力や統率力に欠け、信玄の謀略によって有力家臣や所領を奪われ、旧領復活を夢見ながら流浪した三十余年だった。