武田義統(たけだ・よしずみ) 1526〜1567

若狭国武田氏・武田信豊の長子。通称は彦二郎。治部少輔・伊豆守・大膳大夫。若狭国後瀬山城主。若狭守護。
天文17年(1548)3月、将軍・足利義輝の妹を室に迎えた。
弘治2年(1556)頃、義統を担ぐ家臣らが信豊を更迭しようとする動きを起こしたことから信豊・義統父子の間で家督をめぐる内訌が起こり、永禄元年(1558)の六角義賢の調停によって義統が家督と若狭守護職を継承することで落着を見るが、信豊の隠居料の多寡で再び悶着が起こった。
この父子抗争は家臣団の分裂や自立を目論む動きに拍車をかけ、信豊を支持する逸見昌経が永禄4年(1561)1月に反乱を起こすと、越前国朝倉氏の支援を得て同年8月までにはこれを鎮圧した。しかし、この朝倉氏の介入に反発した家臣・粟屋勝久も離反したため、領国経営はますます混迷を極めることとなった。
この後、信豊・義統父子のときと同じように家臣に擁された長子・元明と不和となる。永禄9年(1566)8月末には姉婿である義統を頼って足利義昭が若狭国へと入国しているが、義統・元明父子の不和のため上洛できず、義昭は朝倉氏を恃むべく10日ほどの滞在で越前国へと向かっている。
永禄10年(1567)11月9日に死去。32歳。死去の日を4月8日とする説もある。法名は桂林寺殿聖寂宗清。