所領の生産高を把握するために田地の面積を測量する政策を検地というが、とくに羽柴秀吉が行った検地を「太閤検地」と呼ぶことがある。太閤とは前関白の敬称であり、秀吉が関白職を退いて太閤となったのは天正19年(1591)であるが、実際には独立を果たした秀吉が安定した地位を得る天正12年(1584)前後以降に行った検地を太閤検地と称している。
従来の検地は6尺平方の土地を1歩とし、360歩を1町または1町歩として基本の単位としていたが、太閤検地の特徴として、従来の1町360歩から1町を300歩に変じたことが挙げられる。このため1町からの収穫高が従前に比べて60歩分減少すると思われがちであるが、秀吉は1歩という単位を6尺から6尺5寸(時期や史料によっては6尺3寸とするものもある)平方とすることも命じており、6尺平方360歩と6尺5寸平方300歩を比較すると、実質的には約2.25%(6尺3寸平方だと8.84%)の差が生じることになる。
これを踏まえ、例えば従前の算出方法で1000町の土地を太閤検地の手法によって再計算すると1022町余となり、同じ面積でありがらも表面上は増えたことになり、その誤差分だけ租税や軍役を多く賦課させることができることになる。これは最終収納者である秀吉のみならず中間領主層にとっても同義であり、最終的に不利益を被るのは租税納入者である生産者、すなわち農民であった。
また秀吉は、国単位での大規模な検地を行ったのち、しばしば領主の所替えを指示しており、この所替えによって長年に亘って培われた生え抜きの勢力を削ぐことで権力強化を図る一方で、太閤検地によって生じた差益を享受するという2つの効果を得たのである。