伊達家臣。幼名は六郎。通称は文七郎。内匠介・山城守。
出自は陸奥国信夫郡西光寺の住職・金伝坊の子とされ、四方を周流したのち伊達氏の重臣・中野宗時に才知を見出されて取り立てられた。
宗時の代理として政事を処理するうちに伊達氏当主・伊達輝宗の信任を得るところとなり、永禄13年(=元亀元年:1570)4月に中野宗時・牧野久仲(宗仲)父子が輝宗に叛いて相馬領に出奔した際、その事後処理において種々の献策や諫言を行ったといい、この頃より輝宗の宰臣として頭角を現すようになる。
卓抜した先見の明を持ち、伊達政宗の言によれば「基信が来年について行った予測は、10のうち8つは外れることがなかった」という。また、輝宗は奥羽諸将の中でも逸早く(天正元年:1573の10月)織田信長に音信を通じているが、これも基信の進言によるものという。
その後も信長のほか徳川家康・柴田勝家・滝川一益・北条氏照らといった有力戦国大名あるいはその重臣らと書簡や進物の往復を頻繁に行うなど、輝宗の厚い信任を得て、のちには宿老に任じられた。
天正13年(1585)10月21日、輝宗に殉じて死す。54歳。
基信以来、遠藤家は代々伊達氏の宿老を勤めた。