母里友信(もり・とものぶ) ?〜?

黒田家臣。名の友信よりも「太兵衛」の通り名の方が有名。但馬守。
武功の多い功臣で、黒田家の先手大将を務めた。黒田家が筑前国52万石に移封されたとき、友信は鞍手郡鷹取城で1万8千石の禄を与えられた。家臣とはいえ、大名並みの石高である。
気骨漢で、主君・黒田長政を諫めることも度々あったという。
朝鮮出兵の際は長政に従って渡海、慶長2年(1597)9月の忠正道稷山の戦いなどに加わる。
「黒田節」のモデルとなった人物。この歌詞の「日の本一の」槍とは「日本号」のことであるが、この槍の所蔵者であった福島正則が宴席において友信に酒を無理強いし、これを飲めば望みのものをやろう、と大杯に酒を満たして渡したところ、友信はそれをすっかり飲み干してしまい、この「日本号」をせしめてしまった。つまり「飲み取」ってしまったのである。