大崎直持(おおさき・ただもち) 1327?〜1383?

陸奥国斯波大崎氏第2代。奥州管領・斯波家兼の嫡男。通称は彦三郎。治部大輔・左京権大夫・左京大夫。
文和元:正平7年(1352)以来、若狭守護であった父・家兼の名代として若狭国から京都方面にかけて南朝方勢力と交戦した。
文和3:正平9年(1354)、家兼が奥州管領に任じられて任地の陸奥国に下向するに際し、弟の兼頼とともに随行した。
延文元:正平11年(1356)6月に家兼が没したのち、家督と奥州管領職を継承する。因みに、陸奥国へ下向して以後の直持発給文書の初見は同年2月の塩竈神社への奉加状である。
また、直持が奥州管領職を継承したときには吉良満家(吉良貞家の嫡男)も同職を帯びていたともされ、奥州管領が並立するという状態は引き続き継続されている。
直持治世下の陸奥国での争乱としては糠部郡での抗争や貞治6:正平23年(1367)の吉良治家(満家の弟)の鎮圧などがあるが、直持が発給した文書には軍勢催促状・軍忠状の証判・感状などがほとんど見られず、自ら軍事行動に参与したかも疑問である。武功譚も伝わっていない。
直持の発給文書の終見は貞治6:正平22年(1367)9月で、その5年後の応安5:文中元年(1372)12月には嫡男の詮持が奥州管領として安堵状を発給していることから、直持はこの間に死去したとも考えられるが、永徳3:弘和3年(1383)11月に57歳で没したとする系図もあり、生没年ともに不詳である。