大崎詮持(おおさき・あきもち) ?〜1400?

陸奥国斯波大崎氏第3代。大崎(斯波)直持の子。通称は彦三郎。別称を詮時。左衛門佐・左京権大夫・左京大夫。奥州管領、のちに奥州探題。
応安5:文中元年(1372)12月2日に相馬胤弘に本領を安堵しており、これが詮持の発給文書の初見である。またこれは奥州管領としての安堵状であることから、これ以前に奥州管領職を継承していたことがわかる。先代の奥州管領で父の直持は永徳3:弘和3年(1383)11月の死去とする系図等もあるが、この詮持安堵状の存在によって疑義も生じる。
応安6:文中2年(1373)頃までには本拠地を志田郡師山から長岡郡小野へと移し、小野の洲賀(須賀)に居住したことから洲賀(須賀)殿と称された。
14世紀中葉の陸奥国は、幕府から「奥州総大将」「奥州管領」といった職を得て下向した武家として大崎(斯波)・石塔・吉良・畠山・石橋の諸氏が並立し、時には共同して、時には抗争に及んでそれぞれが陸奥国の支配体制を確立すべく活動しており、この詮持治世の頃には石塔・吉良・畠山・石橋氏は没落あるいは衰退して大崎(斯波)氏の勢威が強まっていた。
しかし明徳2:元中8年(1391)、室町幕府3代将軍・足利義満の命によって陸奥・出羽の両国が鎌倉公方・足利氏満の管轄下に置かれることとなったため、詮持も鎌倉府への出仕を余儀なくされた。その出仕の際には諸役人たちに会釈や挨拶もしないなど、高慢な態度であったという。なお、詮持は出仕中は鎌倉近くの瀬ヶ崎に宿泊したので「瀬ヶ崎殿」と称された。
それでも奥州管領としての職権は変わらず保持していたようで、鎌倉府管轄下の奥州管領として知行の安堵や相論の裁定などを行っているが、氏満が応永5年(1398)11月に没し、あとを継いだ足利満兼が応永6年(1399)春に弟の満直満貞をそれぞれ陸奥国安積郡篠川と岩瀬郡稲村に派遣し、鎌倉府による直接支配に乗り出したのである。これは奥州管領の存在意義を否定するものであり、さらにはこの両名への所領の割譲を求められたため、反感を募らせるようになった。
そして翌応永7年(1400)、挙兵を計画した伊達(大膳大夫)政宗や蘆名満盛らに与したが、これが失敗すると詮持は瀬ヶ崎から陸奥国へ向けて逃れるも、追撃を受けて陸奥国仙道の田村荘大越で自害した。
その日付は詳らかでないが、同年3月8日付で稲村公方の足利満貞が白河の白川満朝に「伊達政宗と蘆名満盛退治」のための軍勢催促を行っており、ここに詮持の名が挙げられていないのは、すでに自害していたからであろう。
なお、詮持は応永5年12月までには出家して法英と号し、応永6年頃に将軍の義満から奥州探題に補任されている。