佐竹一族。佐竹義舜の子。佐竹義篤(第16代)の弟。通称は四郎。常陸国那珂郡部垂(へたれ)城主。
はじめ佐竹一族の宇留野氏の名跡を継いで宇留野義元と名乗る。
享禄2年(1529)、佐竹氏重臣・小貫俊通の拠る部垂城を襲撃して俊通を討ち取るとともに城を奪い、宇留野・部垂の両城を領した。この後、部垂氏を称したともいう。
このことによって兄の義篤との緊張が高まると、小場義実や高久義貞といった佐竹宗家に反感を持つ一族も義元に与同するようになり、佐竹宗家の統制を揺るがす内紛となった。
しかし天文4年(1535)12月には高久義貞が義篤勢に屈服し、天文9年(1540)3月に至って、義篤軍の急襲により部垂城は落城し、義元は子や小場義実とともに自害した。