深根(ふかね)城の戦い(伊豆(いず)の乱)

当時、伊豆国は堀越(通説では『ほりこし』だが地名では『ほりごえ』という)御所に拠る堀越公方によって支配されていたが、延徳3年(1491)4月、堀越公方の足利政知が病死した。
その以前から公方家では家督争いが起こっていた。政知の後妻・円満院が自分の生んだ子である潤童丸に家督を継がせようと企み、先妻の子である長男の茶々丸を「狂乱」という理由で御所内の土牢に閉じ込めていたのである。しかし茶々丸は政知の死後の混乱に乗じて牢から脱し、円満院と潤童丸を殺して家督を乗っ取った。が、政知の旧臣たちは性粗暴な茶々丸に心服しなかったので、御所内は混乱した。
勢力拡大を目論む興国寺城主・北条早雲は好機到来とばかりに5百ほどの軍勢を率いて堀越御所を急襲した。堀越御所は城構えでないうえに不意を衝かれたため、抵抗らしい抵抗もないままに陥落したという。茶々丸は近くの願成就院に逃れ、そこで自刃した。
このことによってまたたく間に伊豆国は平定されたが、早雲に最後まで抵抗したのが深根城を守っていた関戸吉信で、早雲は見せしめのための力攻めを行い、城中の女子供まで首をはね、城の周りに1千余の首をかけたという。
この伊豆平定において、早雲は「四公六民」の税制を布いた。当時はどこの国の領民も重税にあえいでおり、五公五民なら仁政と言われ、七公三民という酷税も珍しくなかったという。この寛大な税制に領民は早雲に服し、関東に覇を唱える原動力となったのである。この税制は早雲以下の氏直の代まで遵守された。