天正3年(1575)5月、織田信長の援軍を得て長篠の合戦で武田勝頼を破った徳川家康は、直ちに武田氏への反攻に転じる。
家康がまず目指したのは、遠江国の犬居谷と称される地域の掌握であった。この地域は、武田氏が信濃国の伊那地方から家康の本拠・遠江国浜松城へと軍勢を送る経路にあたることから、武田氏が長篠合戦で受けた打撃から立ち直るまえに抑えておく必要があったのである。
家康はまず、浜松城に近い二俣城の周囲に4つの砦(付城)を構築し、大久保忠世らに指揮を委ねて二俣城を牽制させると、その後背に在って二俣城を支える光明城の攻略に取りかかった。6月24日のことである。
家康は光明城の麓の横川に布陣してここを本陣とし、本多忠勝・榊原康政らに命じて光明城の大手(正面)にあたる仁王堂口から攻めさせ、家康の本隊からは旗本衆を城の背後に繰り出して攻撃させた。『浜松御在城記』では多々羅江(只来)口からは大給松平真乗が、「セウシン淵口」からは内藤信成が攻めたといい、城を包囲するように激しく攻め立てたことがうかがえる。
この猛攻に、城を守っていた朝比奈又太郎泰方は支えきれずに降伏開城し、一命を助けられて甲州へ落ち延びていったという。