志賀(しが)城の戦い

甲斐国の武田信玄は信濃国への侵攻を始めて5年目の天文16年(1547)、佐久郡北域の志賀城に狙いを定めた。志賀城主の笠原清繁は関東管領・上杉憲政の親戚筋より正室を迎えていたこと、天険の要害を恃む志賀城に拠っていたことなどから信玄に敵対する姿勢を崩さず、その降伏勧告にも応じようとしなかったため、標的にされたのである。

松尾小笠原氏からの援兵を加えた武田勢が志賀城への攻撃を開始したのは閏7月24日のことであったが、要害を活かした頑強な守りに阻まれて落とすことができず、金山の金堀り衆に坑道を掘らせて地下からの潜入を試みたとも言われるがこれも成らず、攻めあぐねた。城攻めの常法として、城内に流れ込む水の手を断つことには成功したが、それでも志賀城は屈しなかったのである。
城内には清繁やその一族、先立って上杉憲政より派遣されていた援将・高田憲頼の軍勢、それに女・子供や老人らの非戦闘員らが籠もっていた。その兵力は史書によって異なるが、1千ほどと思われる。
8月5日、上杉憲政より差し向けられた金井秀景(別称を倉賀野秀景)を将とする3千余騎の軍勢が、上野国より碓井峠を越えて志賀城に向けて進撃。金井隊は浅間山麓の小田井原に布陣し、志賀城を攻撃する武田軍の主力を誘い出して一戦を交えようとしたのである。これを受けて信玄は板垣信方甘利虎泰横田高松多田満頼ら4千ほどの軍勢を小田井原へと繰り出し、8月6日未明の合戦でこれを壊滅させたのである(小田井原の合戦)。
この小田井原の合戦ののち、武田軍は討ち取った金井隊将士の首級5百余を槍の穂先に刺し、志賀城の本丸から見えるところに晒した。
これを見て援兵の望みを断たれたことを知った城兵の士気は阻喪し、清繁も城を出て戦う覚悟を決めたという。そして8月10日の朝、大手門の扉を開けて清繁以下1千余の兵が城外に打って出て、武田勢への総攻撃を敢行。武田勢は城内に入り込みながらも激しい抵抗を受けて容易に城を落とすことができずにいたが、翌11日には大勢も決し、清繁も壮烈な討死を遂げて志賀城は陥落した。

清繁とその子2人、高田憲頼父子ら城兵の大半は戦死し、城内で捕えられた清繁夫人や女・子供、城内に避難していた領民ら非戦闘員や残兵は捕えられて甲府へと送られ、2貫文から10貫文という高額な身代金で親族に身請けさせられたといい、美貌で知られた清繁夫人は武田氏の将・小山田(出羽守)信有が連れ帰って(20貫文で買い取ったともいわれる)側室となったという。