端居

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俳句


試歩疲れ 歩ける幸や 夕端居

バリカンの 母の手捌(てさば)き 夕端居

ミシン踏む 母の鼻歌 夕端居

飛車角を 抜きて父との 夕端居

虚と実の 狭間に母の 端居かな
 

夕端居 見つめし闇の 深きかな

縁先に 商ふ薬 夕端居

銭湯の 後の楽しみ 夕端居

母に勝つ 挟み将棋や 夕端居

綾取りの 触れる指先 夕端居
 

 

季語について

 

 

俳句にまつわる話


 6月2日(土)の栄句会の季語は<端居>でした。
端居とは、家の端に居ることですが、
具体的には、風通しの良い縁側などで
夕涼みをすることなので、季節は夏です。

 これも俳句独特の言葉で、一般ではほとんど使いません。
でも、雰囲気があって、
いろいろとイメージが膨らむ良い言葉ですね。
今の住宅は、庭も縁側も少なくなって、
さらにクーラーの発達で夕涼みという実感がありませんので、
端居は過去の言葉のようになってしまいました。

 私は蒲郡市に生まれましたが、
高校まで住んでいた家は、
借地(土地は借りていて、家だけ持ち家)でしたが、
広い庭と縁側があり、端居をしていた記憶があります。
今回はその頃のことを思って句を作りました。

 バリカンの母の手捌き夕端居

 今から50年くらい前は、日本中が貧乏で、
子供の髪はほとんどが家でやっていたと思います。
私の家は母がバリカンを使って、
縁先で私を丸坊主にしてくれました。

 貧乏だったけど、みんな貧乏だったので、
貧乏だと気がつきませんでした(*^_^*)。
時には虎刈りに恥ずかしい思いをしたこともありましたが、
今となっては懐かしい思い出です。
ないものを工夫で補う、そこに家族の愛を感じます。

 ミシン踏む母の鼻歌夕端居
 ミシン踏む母を見つめし端居かな

 貧乏だったけど、あの頃はほとんど専業主婦で、
共稼ぎという習慣はありませんでした。
でも、その代わり家で内職をしていました。

 いろいろな内職を母はしていたと思いますが、
印象に残っているのは、ミシンでの内職です。
縁側に続く畳の部屋でミシンを踏んでせっせと内職をする母、
それを縁側で端居をしながら眺めるのが好きでした。

 綾取りの触れる指先夕端居
 飛車角を抜きて父との夕端居
 
 私の子供時代は、ゲーム器のない時代でしたから、
いろいろ工夫をして遊んでいました。
綾取りもその一つです。

 将棋も好きで、将棋を知らない母とは挟み将棋を、
父とは飛車角を抜いて将棋をしたものです。

 将棋は父から教えてもらいました、
最初は飛車と角を抜いてのハンディ戦、
それでも勝てなかったのが、本で勉強するようになり、
だんだんと力が付き、
飛車角を抜かなくても勝てるようになります。

 試歩疲れ歩ける幸や夕端居

 四十代の半ばに第五腰椎分離症の手術のために
三ヶ月入院をしていました。
幸い手術は成功をして、
退院後、歩く練習(俳句では試歩と言います。)
をしていた頃のことを今でも鮮明に覚えています。

 一時は車椅子での生活まで覚悟をしましたが、
歩けるようになりました。
その時思ったこと、
普通になんの苦痛もなく歩けることが
どんなに幸せなことかと……。

 あの時は、歩けるだけで十分だと思っていた心も
今ではどんどん薄れ、その時の気持ちを忘れがちになっています。
「喉元すぎれば熱さ忘れる」は人間の常態ではあるとしても、
それはやはりいけないことであり、
機会あるごとにこの言葉とこの時のことを思い出して、
心を戒めていきたいと思っています。
 

 

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