海苔

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俳句

海苔巻きや 真白き母の 割烹着

海苔巻きや 妻いそいそと 子の帰省

揉海苔や 父拘りの とろろ汁

海苔巻きや 少し良き事 ある夜には

五十年 海苔育みし 海戻る
 
海苔粗朶や 島へ石橋 二百間

海苔掻きの 海女姦しき 浜言葉

海苔干場 浜の噂の 飛び交ひぬ

番をする 媼舟漕ぐ 海苔日和

班ごとに 囲む弁当 海苔香る
 

 

季語について

 

 

俳句にまつわる話

 3月2日(土)の栄句会の季語は<海苔>でした。
海苔の季語は春です。

海苔巻きや 妻いそいそと 子の帰省

 私は二人の子供がいますが、
今は二人共成人して、名古屋で一人暮らしをしています。
娘はほとんど帰って来ませんが、
息子の方は、割と律儀に盆と正月には帰省をします。
そんな時妻は、いそいそと息子の好きな海苔巻きを作っています。
面倒くさいと言いながらも、それを楽しむように
子供の好物を作っています。

海苔巻きや 真白き母の 割烹着

 大好きだった母親の記憶はいろいろとありますが、
お祭りの時に台所で海苔巻きを作っている母の姿もその一つで、
あの頃の主婦は和服に割烹着というのが一般的でした。

 今は回転寿司が普及をして、握り寿司を低価格で
腹一杯食べることができますが、
昔の寿司は高級品で、
一般庶民では、年に一度、大晦日に夜に、
出前の寿司がとれるかどうかでした。

 だから私の子供の頃の寿司と言えば
巻き寿司のことで、母はお祭りともなれば、
朝からずっと巻き寿司を巻いていました。
そのため、厨には酢のいい匂いが充満し、食欲を刺激するので、
母の側に座って、時々できた寿司をつまんでは食べていました。
今考えると、貧しかったけど豊かな時間でした。

 五十年 海苔育みし 海戻る

 私は蒲郡市に産まれて育ちました。
家は竹島の近くで、家から100mも歩けば、海という場所でした。

 伊勢湾台風(1959年)は私が小学校2年生の時でした。
その時の恐怖は今での鮮明に覚えていて、
家は床上1mまで浸水しました。
海岸から観光船が乗り上げ
家のすぐ目の長屋で止まり、あと少しの所で家の倒壊を免れました。

 暴風雨の中、母と妹の3人で親戚の家に避難をしました。
父は一人家に残り、平屋だったので、
間一髪天井裏に避難し無事でした。

 その甚大な被害の教訓から、
海岸線にはコンクリートの堤防が作られ
美しい砂浜はなくなりました。
また、その後の高度成長経済の影響もあって
海は汚れに汚れました。

 それが50年、半世紀をかけて海は蘇りました。
そこにはたくさんの人々の思いと努力があり、
昔と同じような美しい海が戻りました。
ただ、仕方がないことですが、
堤防によって、美しい海岸線は消えたままです。

 揉海苔や 父拘りの とろろ汁

 私の父は職人でしたが、とにかくまめな人で、
なんでもかんでもできるので、
おかげで息子の私はなにもできない子供で育ってしまいました(;>_<;)。

 料理も得意で、いろいろと拘りがありました。
一番は、サツマイモをサイコロの目のように切って入れる芋粥です。
すき焼きの味付けも拘って、母ではなく父が必ずやっていました。

 とろろ汁は、母の手をかりて自分ですって、
だし汁に拘っていました。
それに炙った海苔を揉んで、どんぶり飯で食べていました。
懐かしい味です。

 海苔巻きや 少し良き事 ある夜には

 日々の暮らしは平凡の繰り返しで
息が詰まって来ることもあります。
そんな時は疲れがたまって、やる気が起こらないわけで、
気分を変えて、ちょっと豪華な外食をしたり、
お酒を飲みに行き、気分転換をはかることが良いでしょう。

 今は豊かで、外食も当たり前の時代ですが、
私が子供の頃は、家族で外食をすることはほとんどなく、
外食の店もほとんどありませんでした。

 でも外食に行く代わりに、
母が海苔巻きを作ってくれました。
お祭りでもないのに、海苔巻きが夕食にでることは
うれしくて何か得をした気分になったものです。
 

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