枇杷の花は、幸いにも隣の家にありました。
2階の自分の部屋からのぞくと、隣家の枇杷の花が見えます。
ただ、よく目を凝らさないと、花が咲いているのかわかりません。
白い花、でも辛夷やシクラメンのような明るい白ではなく、
冴えない白、どこか薄汚れたような白です。
大きな葉の影に隠れて、目立たないので、
寂しい花、控えめな花、不幸の花というのが、私の印象です。
ずいぶん前ですが、枇杷の実をいただいたことがあります。
30年来のお隣さんで、船員の旦那さんがなくなったあと、
しばらくして、一人息子も精神を病んで自殺しました。
こんな不幸続きの家に、今は犬との一人住まいです。
ひつそりと寡婦住む家や枇杷の花
※寡婦(かふ)とは、未亡人のことです。
俳句は座っていてもできません。
できる人もいるでしょうが、私はそのレベルではないので、
とにかく、どこかへ行って、いろいろと体験する中で作ります。
そんな私に一番合っているのが、
名鉄やJRなどの沿線ハイキングです。
毎週土日のどちらかで開催されているので、
天候や自分の都合に併せて参加しています。
歩きながら、景色や花などを見ていると、
俳句の句材となるものが浮かんでくるので、
句帳にすばやく書きとめます。
悲しいかな、書きとめておかないと、
確実に忘れてしまい、二度と思いだすことができません。
不思議なことに、歩くと俳句ができるのは、
歩くことが脳を活性化するのかもしれません。
また、何か目的を持って歩いていると、それに出会うことができます。
例えば、今回の季語の「枇杷の花」を思っていると、
自分の家の周りでは見つからなかった枇杷の花を
結構の頻度で見ることができますが、今回もそうでした。
枇杷の花は先ほども言いましたが、目立たなく、
控えめな花なので、気が付かずに通りすぎることがほとんどです。
私は、枇杷の花を探していたので、それらしいものに出会うと
近くに行って確認をして、見つけることができるのですが、
ハイキングに来ている人は、
ほとんど誰も気づかずに通りすぎていきます。
とのぐもる空へ溶込む枇杷の花
寂しさを屋根に散敷く枇杷の花
※とのぐもるとは、曇ること。
俳句には、大きく分けて、<一物仕立て>と
<取り合わせ>という手法があります。
575の17音全てで、一つのことを述べることを<一物仕立て>、
それに対して、例えば上5と中7で言っていることと、
下5が関係ないことをいうことを<取り合わせ>といいます。
<取り合わせ>は高度なテクニックで、
うまくいくとすばらしい効果をだして、句が生きてきますが、
失敗すると、何のことかよくわからない句となってしまいます。
その二つの関係は、近すぎてもだめでしし、
遠すぎてもだめで、
「つかず離れず」のバランスの取れた時を良しとして、
「季語が座る」というような表現をします。
枇杷の花テロも喉元過ぎてゆく
人並みのなんと難し枇杷の花
華なくて売れぬ芸人枇杷の花
転生の信長枇杷の花となる
<枇杷の花>は地味で控えめな花、
その対極に信長が、もし輪廻転生して生まれ変わって、
枇杷の花になったらおもしろいと、一人悦に入ってつくりました。
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