身に沁む

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俳句

老病死 釈迦の教えの 身に沁みぬ

「砂の器」 身に沁む父子の 定めかな

漠とした 老いへの不安 身に沁みぬ

身に沁むや 娘三十路の 派遣切り

早逝(そうせい)の 友の妻子や 身に沁みぬ
 
雑踏の 中の孤独や 身に沁みぬ

身に沁むや 格差社会の 広がりぬ

「罪と罰」 無償の愛の 身に沁みぬ

身に沁むや 七十年の 平和呆け

難民の 少女の溺死 身に沁みぬ

 

季語について

 

 

俳句にまつわる話

 
 <身に入む>とは、秋の冷気やものさびしさが、
深く身にしみるように感じることで、晩秋の季語です。
 
 単に人の悲劇や苦労に同情する意味の<身に入む>だけでなく、
そこに秋の持つ、寂しさや寒い冬へに向かって行くという
秋ならではの趣が出せたらと思い、句を作りました。

 老病死釈迦の教えの身に入みぬ

 釈迦の教えの中心にあるのが、この「老病死」の三苦です。
どんなスーパースター、天才でも、この三苦からは逃れることができせん。
逃れることができないなら、それとどううまくつきあっていくか、
それが人生を有意義に生きるということにつながると思います。
 
 ※ 正確には「生老病死」の四苦で、「生きる」ことも苦しいことです。

 最近では、「川島なお美」、「北斗」などの
癌との戦いがマスコミで報じられ、
その苦しみを思うと胸が痛くなります。

 自分の親戚、友達にもよく似た状況の人は必ずいるもので、
自分が過去にそうであった人もいるでしょう。

 そして、いつ自分がそうなるかわかりません。
その時に、自分はどう対処するのか、
「川島なお美」のような、見事な最後が演じられるのか?
家族や友人への配慮と、
死ぬまで凜として生きる姿勢を保つことができるのか?
これはつくづく身に入みて考えさせられるテーマです。

 「砂の器」身に入む父子の定めかな

 身に入む映画にはどんなものがあるのか?
そう考えた時にすぐに頭に浮かんだのが、「砂の器」でした。

 この作品は、いろいろとリメイクされていますが、
私は加藤剛の主演のものが一番好きです。

 らい病の父と少年が村を追われ、
乞食のような格好で、吹雪舞う浜辺を歩いているシーンは
涙なしでは見られません。

 らい病(ハンセン氏病)は、
昔は感染すると考えられていた恐ろしい不治の病でした。

 自分の過去を封印し、努力した少年は有名な作曲家になりますが、
その過去の秘密を守るために、
恩人を殺すという選択しかありませんでした。
まさに、運命(定め)に翻弄された悲運の父子です。

 漠とした老いへの不安身に沁みぬ

 老いていく恐怖や不安は日常生活を普通に送っている時には、
それほど感じないものですが、
何かのきっかけに自分の10年先、20年先を考えると不安になってきます。
では具体的に何が不安かというと、その正体はわからず漠然としています。

 雑踏の中の孤独や身に入みぬ

 孤独は一人だから、感じるものではなく、
人がいるところ、私は特にたくさんの人がいる場所、
たとえば名古屋駅の雑踏の中などに、孤独を感じます。
ただ、私は孤独は嫌いではないので、
都会の雑踏の中の孤独も好きです。
そんな中での思考はきわめてクリアーで
良いアイデアが浮かびます。

 身に入むや娘三十路の派遣切り
 身に入むや格差社会の広がりぬ

 最近ネットで「下流老人」という言葉を知りました。
これは人ごとではありません。
「老いた母の介護のために、退職をして介護をする老いた息子」、
「職のない息子や娘を養う年金暮らしの老夫婦」
「老老介護のどちらかが癌にかかり、その莫大な治療費のいため」と、

 いろいろなパターンがありますが、
昔はそれを地域社会や大家族が補ってきました。
そのセーフティネットがなくなり、
企業戦士として日本のために働いてきた老人が、
下流老人と呼ばれ、悲惨な生活を余儀なくされています。

 こんな現状を考えると、
本当に日本は豊かになったのだろうかと考えてしまいます。
格差社会(金持ちはもっと金持ちに、貧乏人はもっと貧乏に)は広がり、
一億総中流といわれた日本の良さも失われてしまいました。
 

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