畑打

    俳句の目次へ 

 

俳句

畑打ちの 鍬を操る リズムかな

畑打つや 晴耕雨読 範として

畑打てば 土喜びて 小躍りす

畑打ちに そつと寄添ふ 影一つ

鍬入れて 土確かめつ 畑打ちぬ
 
畑打つや 国分尼寺の 山裾に

畑打夫 沈思黙考 なるニーチェ

パソコンを 鍬に持ち替え 畑を打つ

畑打夫 企業戦士の なれの果て

畑打や 嫁と姑の 休戦日
 

 

季語について

 

 

俳句にまつわる話

 
 季語<畑打>は、春になり、種まきや植え付けの準備のために、
土をほぐすために畑を打つことです。ちなみに田植えの準備の方は
<田打>と言います。

 大規模な農地はトラクターで耕しますが、
小規模な所や、家庭菜園などは、昔ながらの鍬の世界です。
そのため、この時期にハイキングをすると、
至る所で畑打ちの風景が見られ、春を感じさせてくれます。

 老後は田舎に住みたいという人も沢山いると
思いますが、私はだめですね。
田舎暮らしは刺激が少なく、どんなに自然が良くても、
すぐに飽きて退屈をしてしまいます。

 もし今の家を越すなら、
私は都心のマンションに住みたいと思っています。
都心は交通の便も良いし、公共施設もあり、
遊ぶ所も一杯あるからです。

 田舎で暮らしたい人の中には、
自分で畑をつくり、自給自足的なことを
望んでいる人も多いと思います。
でも、私は嫌です。
畑を打つには鍬を使うなど重労働で、
腰が痛くなるし、長い間立っていることも苦手です。

 だから、よほどのことがない限り、
自分で畑を打つことはありません、
きっと、自分には一番似合わない姿かもしれません。

 それでもこの季語で、俳句は作らなければならないので、
畑を打っている人の様子をじっくりと見て、
俳句にするしかありません。

 畑打てば土喜びて小躍りす
 鍬入れて土確かめつ畑打ちぬ

 人間が春を待っているのと同じように、
土もきっと暖かい春を待っているに違いありません。
そして、優しく鍬で耕してくれれば、気持ちが良いはずです。

 実際に土が小躍りするわけではないのですが、
堅い土が徐々に砕けていく様は、
そんな喜びが感じられる気がします。

 畑打ちにそつと寄添ふ影一つ

 畑を打つ夫に、そっと寄り添うように、妻の影があります。
 
 市民農園やレンタル農園などで、
定年後の夫婦が、ゆったりとした時間のなか、
畑を打つ姿は、ほのぼのとさせてくれるものがあります。

 私は団塊の世代の末期ですが、
その私が65歳となり定年を迎えるのですから、
多くの人が職を離れて、中には畑を打つ人も多くいることでしょう。

 畑打夫企業戦士のなれの果て
 パソコンを鍬に持替え畑を打つ

 団塊の世代は、企業戦士とおだてられ、
仕事しか生き甲斐のない哀れな世代、
そして気がつけば定年となり、
有り余る時間を有効に使うための趣味もない。

 だったら、畑でも打つか?との安易な考え、
でも農業には農業の苦労があり、
生半可な気持ちで、できるものではありません。

 畑打つや晴耕雨読範として

 晴耕雨読とは、田舎で世間の煩わしさを離れて
心穏やかに暮らすことです。
晴れた日には田畑を耕し、
雨の日は家に引きこもって読書するという意味です。

 晴耕雨読は昔から文化人が、静かに余生を楽しむという、
そんな知的な雰囲気の漂う言葉です。
この句はそれを模範として、暮らしたいというような意味です。

 畑打夫沈思黙考なるニーチェ

 沈思黙考とは、黙ってじっくりと物事を深く考えることです。
畑打ちをする人を遠くから見ていると、孤高の人に見え、
時々天を仰ぎ姿は、<人はなぜ生きる>などの
哲学的なことを考えているようにも見えます。

 畑打ちや嫁と姑の休戦日

 農家の嫁と聞くと、父方の祖母を思いだします。
若くして寡婦となり、女手一人で6人の子供を育てた
強者です。
頑固で嫁との間に長く激しい戦いが続きました。
これは一昔前の農家には当たり前にあった話なのでしょうが、
そんな嫁と姑も畑打ちの時には、矛を収め休戦をするのでしょう
 

上に戻る