芭蕉忌

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俳句

座の友と 鎬(しのぎ)削るや 翁の忌

定年は 切字なりけり 翁の忌

芭蕉忌を スマホでググる 時勢かな

芭蕉忌や 師系辿れば 根は一つ

俳論は 矛に納めて 翁の忌
 
芭蕉忌や 第二芸術 てふ欺瞞

義仲寺に 集ふ同行(どうぎよう) 翁の忌

俳論の 五十歩百歩 翁の忌

芭蕉忌や 生くる糧とす 座の縁

芭蕉忌や 切磋琢磨の 座を囲む

 

季語について

 

 

俳句にまつわる話


 芭蕉忌とは、松尾芭蕉の忌日(陰暦10月12日)のことで、初冬の季語です。
俳句の世界では,芭蕉は翁とも呼ばれているので、翁の忌とも言います。

 俳句は江戸時代の連歌・歌仙に始まると言われ、
その発句(ほっく)<最初の575>が
やがて独立し俳句となりました。

 連歌(れんが)とは、最初の人(主宰者が多い)が、
575で句を作り、次の人がそれに関連する77でつなげて句にし、
さらに次の人がそれに繫がる575の句を作るというように、
座(句を作るために集まった人々)にいる人が、
次々に句をつなげていくことで、36句連ねたものを歌仙と言います。

 座によって一つの歌仙を作ることを、歌仙を巻くといいますが、
前の句と関連したものを、次の人は詠んで行かなければならないので、
相当の知的レベルが必要です。
江戸時代は座を組んで歌仙を巻くことが主流で、
芭蕉もこちらに力を入れていました。

 俳句とは座の文芸であると言われます。
座とは今で言う句会のことで、
句会のために集まった人で協力して良い句を作っていくことです。
互いにコメントし批評していくことで、良い句ができるので、
どのような人が句会に集まるかは、大変重要なことです。

 だから一人で句を作っていても上達は遅く、
座を囲む(句会に参加したり、結社に入ること)が重要で、
そこで人間関係を深め、俳句を高め合っていく同志が必要です。
私は現在3つの句会に所属し、月に4回の句会に参加しています。

 座の友と 鎬(しのぎ)削るや 翁の忌

 俳句の切字で有名なものは「や・かな」があります。
このような切れ字によって、俳句は詩となり、俳句らしくなります。
切れ字のない句はどこか散文的で冗長で、しまりのない句となります。

 また、定年退職は男の人生において大きな転換点であり、
これによって味わい深いものとなります。
そんな意味からも、定年は切れ字のような気がします。

 定年は 切字なりけり 翁の忌

 <ググる>とは、googleで検索をすることです。
ネットの世界、特に若者の間で流行っている言葉で、
私は俳句を作るときも、人の句を鑑賞するときも、
googleは必須アイテムなので、まさに<ググって>います。

 芭蕉忌を スマホでググる 時勢かな

 俳句を本格的にするには、俳句結社に入ることが主流です。
俳句結社とは、どこか華道や茶道の家元の制度に似ていて、
指導者(主宰という)がいて、その人が会員の句を選句し、
結社の雑誌(俳紙)に、席次(前にあるほど評価が高い)
をつけてのせます。

 その権威は結社の中では絶大で、
主宰が選んだ句に誰も文句を言わないし、
添削されて大幅に変更されても、有り難く受け入れます。

 主宰は原則的に世襲制ではありませんが、
次の主宰は現在の主宰に決定権があります。
これも家元制度にやや似ています。

 現代俳句は正岡子規に始まり、
高浜虚子によって、大衆化が計られ、全国に広がりました。
そこから、俳論の違いから、
例えば季語を入れる(有季)のか、いれない(無季)のか?
575に字数に拘る(定型)のか自由(自由律)なのか?
自然を見たまま描く(客観写生)のか、
自分の主観をいれて描く(主観写生)のか?
などなど、俳句の考え方の違いによって、
俳人が別れ、自分の結社を作っていき、
膨大な数の結社が現在あります。(師系の数ほどあると言ってもよい)

 でも、この師系も辿っていけば、源流である、
芭蕉に行き着くわけです。

 芭蕉忌や 師系辿れば 根は一つ
 

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