初冬の季語で、私の受ける花のイメージは、
控え目で遠慮がちな女性です。
幸い家の庭には石蕗の花が咲いていたので、
朝昼晩とじっくりと見ることができました。
もちろん私が植えたものではなく、妻が植えたものですが、
ありがたいものです。
俳句を始めて、それまで全く関心のなかった草花に
眼がいくようになりました。
(でも、自分で育てようという殊勝な気持ちは全くなく、
もともと花を育てるというな面倒なことは大嫌いで、
自分の性分に合いません。)
自分はめんどくさがり屋(それも超がつくほど)だと
このごろつくづくと思います。
人がやってくれたことをこれ幸いと利用ばかりしている、
こんな輩はいつか痛い目に合うと思います。
控え目は 昭和の美徳 石蕗の花
控え目とか遠慮することが、美徳であった時代もありましたが、
今は必ずしも美徳ではないと私は思います。
過ぎたるは及ばざるが如しのたとえのように、
極端な遠慮、度を超えた控え目は悪だとさえ思います。
主張すべきことは主張し、やりたいことははっきり言う、
そして人のためではなく、自分のための人生を歩むべきだと思います。
男の都合や権力の都合で、
女はこうあるべきだ(控え目は美徳であるというような)は、
時代錯誤であり、新しい時代にはそぐわないと思います。
石蕗は 妣(はは)に似し花 希望の黄
昭和2年生まれの妣は、生きていれば88歳くらいになるでしょうか?
「妣(はは)」死んだ母を表す漢字ですが、とても便利なもので、
俳句を作るときにはとても重宝しています。
一字で生きているか死んでいるかが分かるのですから……。
でもなぜか父にはありません。
きっと母は死んだ後も、みんなが偲むので、
特別な漢字ができたのかもしれませんね。
昭和の女として生きた妣は、
控え目で遠慮がちな所があり、石蕗の花に重なる気がします。
そして何よりも私には希望を与えてくれた存在でした。
石蕗は 狭庭の隅が 似合ふ花
自分の家の庭だけでなく、どこの家の庭でも、
神社仏閣でも、どうどうと真ん中にというよりも、
隅っこの暗い所にひっそりと咲いていて、
目立たないという印象が強い花ですね。
夕闇を 纏(まと)ひ石蕗 息潜む
石蕗は夕闇に、自分を恥じ入り、存在を隠すように、
息を潜め、気配を消しているようです。
石蕗の 纏ふ光や ゴッホの黄
ゴッホ展を以前見に行った時、
「夜のカフェテラス」という作品が好きになりました。
店内の黄色い光がオープンカフェに洩れていて、
フランスの場末の雰囲気を醸し出しています。
どこか儚くて、でも暖かみのある黄色、
それは石蕗の黄色とよく似ています。
また黄色は黄泉の国の黄とも重なり、
その淡い光で、妣の住む黄泉の国への道を
照らしてくれているようです。
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