日々の思い
<h17.2.7> |
教学相長 |
<教学相長>は(きょうがくあいちょうず)と読むんですね、インターネットで調べてみると<教えるということと、学ぶということとは、お互いに助け合うものだ。>とありました。でも、Sさんの<教えを受ける側が成長するばかりでなく、教える側も自らの不備や未熟さに気づかされ、相互に刺激を与え合い進歩、成長するという意味である>という説明の方が断然良いですね。 私はこの<教学相長>という言葉を聞いて二つのことを思い出しました。栄中日文化センターの<現代詩>と<論語>の講義のことです。 現代詩の先生から、詩を作る時の極意みたいなものを一番最初に聞かされました。それは<詩とは物事をとことん見つめることだ>そうです。その代表的な詩として、イギリスの詩人、ウィリアム・ワーズワース(William Wordsworth 1770〜1850)の<虹>を紹介してくれました。 虹
空に虹を眺めるとき わたしの心は弾む。 生まれた頃はそうであった、 大人となった今もそうである、 年をとってもそうだろう、 さもなければわれに死を! 子どもは大人の父である。 私の人生の日々が 自然への敬愛により結ばれますよう。
この詩は、子供の心(純真な心、感動)を忘れるな。それを忘れたら詩人ではなくなり、死んだ方がましだ。そんなことを言っているのだと思います。詩人は子供のようにあらゆるものを新鮮に見て、そこから感動を受ける、そんな柔らかごころが必要なわけです。 また、子供から学べとは全ての人から学べに通じる気がします。人生に無駄はありません、自分の知らないこと、自分ができなかった経験をしたことを考えれば、全ての人は父であり先生であります。 それから、もう一つは論語の<子曰、學而時習之、不亦説乎、有朋自遠方来、不亦楽乎、人不知而不慍、不亦君子乎。>子曰わく、学びて時にこれを習う、またよろこばしからずや。朋あり遠方より来たる、また楽しからずや。人知らずして慍(うら)みず、また君子ならずや。この中の<朋あり遠方より来たる、また楽しからずや。>の解釈を論語の先生は次のように話してくださいました。同じ学問をする友と、そのことについて話し合うことは楽しく、自分の学んだことをより深めることになる。この話し合うとは、お互いに教えあって成長しあっていることです。一人で学ぶのではなく、一緒に学ぶことの大切さや重要さを教えてくれている気がします。 |