日々の思い

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<h17.5.10>

あることと見ることは違う

   私は家を平成元年に建てて、その時に亡くなった父がいろいろな木を植えてくれました。GWの日に、嫁さんの命令に従って、いやいや庭の草取りをしたのですが、草取りも一段落して、濡れ縁に腰掛けてふと庭に目をやると、目の前に立派な檜が目に入りました。高さが5mくらいになって、隣の敷地まで勢いよく枝を伸ばしています。いつこんなに大きくなったのか?と感慨にふけっていました。

 そういえば、庭に千本桜の木があるのですが、今年は見事に濃いピンクの花を咲かせました。丁度俳句の季語<囀り>で桜の句を作っていた頃なので、ひときわ新鮮で鮮やかに映ったのでしょう。

 もちろん檜にしろ、千本桜にしろ、今年急に大きくなったわけでも、花を咲かせたわけでもありません。昨年も、その前も同じだったはずです。でも、それに気がつかなかった。それに気がつく、ゆとりや余裕みたいなものができたからでしょう。それも<白秋>の役得です。

 このことから<あることと見ることは違う>ということを再認識しました。人間は、目が開いているからものを見るのではありません。そこにものがあると意識して初めてものを見ることができます。だから、そこにあっても見えないものは一杯あります。

 たとえば、絵を習うことで美術館へ行く。今までならルノアールなんて何の関心もないのに、今はものすごく興味がある。このようにして人間は成長していくんですね。心の眼でものを見ること。普通の眼は物がそこにあっても見る気がない時には見えません。意識して初めて見ることができます。

 金子みすずの星とたんぽぽという詩が、私は好きです。<見えぬけれどもあるんだよ、見えぬものでもあるんだよ。>と韻を踏むところが良いですね。

『星とたんぽぽ』

青いお空のそこふかく、

海の小石のそのように、

夜がくるまでしずんでる、

昼のお星は目にみえぬ。

  見えぬけれどもあるんだよ、

  見えぬものでもあるんだよ。

 

ちってすがれたたんぽぽの、

かわらのすきに、だァまって、

春のくるまでかくれてる、

つよいその根はめにみえぬ。

 

  見えぬけれどもあるんだよ、

  見えぬものでもあるんだよ。

 

 

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