日々の思い

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<h18.11.11>

上杉鷹山
 
  私は一昨年の11月から第1と第3土曜日に名古屋の栄中日文化センターで俳句と論語の講座を受けています。

 この前、11月4日(土)の論語の講座でいい話を聞いたので、今日はこの話をさせてください。

 論語の講義の中で、上杉 鷹山(うえすぎ ようざん)の話が出ました。

 今、私は真田太平記(池波正太郎)を読んでいます。そこに、上杉景勝という大名が出てきます。かの有名な上杉謙信の息子です。

 彼は、関ヶ原の戦いで西軍(豊臣)について敗れますが、家康に許されて米沢藩30万石へ国替えをさせられます。その前が会津120万石ですから、1/4になってしまったわけです。景勝が米沢藩の初代藩主で、鷹山は9代目の藩主になり、その間に、約150年くらいの時間の経過があります。

 では、どうして上杉鷹山の話が論語の講義に出てきたかですが、講座を受けている人(トヨタの重役で定年退職した人)が書いたエッセイが話題になって、その中に、「ケネディ大統領が日本人で一番尊敬する人はだれか?と新聞記者から問われた時に、上杉鷹山だと答えた」という文章があったからです。

 上杉鷹山が藩主をしていた時におこった、浅間山の噴火を原因とする天明の大飢饉では、東北地方を中心に多数の餓死者が出たのですが、鷹山は、非常食の普及や藩士・農民へ倹約の奨励など対策に努め米沢藩のみ餓死者が1人も出さかったそうです。

 上杉家は忠臣蔵のあった元禄時代に世継ぎがいなくなって、断絶の危機に立ちます。
その時に親戚の吉良上野介の子供を養子にすることでなんとか家の存続が許されますが、15万石に減封されます。

 上杉家は会津120万石の時の家臣6000人を、30万石になった米沢藩でもそのまま召し抱えていたので、それだけでも財政が苦しいのに、さらに、謙信の時から上杉家は気位が高くて、贅沢な生活をしていたので長年にわたり、蓄積した膨大な借金があり、いよいよ困って、幕府へ藩を返上しようかと考えていた時に鷹山が藩主になります。

 上杉鷹山の師が、儒学者の細井平州です。彼は、今の東海市の出身です。鷹山14歳、平州37歳の時に出会いがあり、米沢藩主の師になります。

 細井平州がどのような教育を鷹山にしたかはわかりませんが、鷹山のしたことや言葉をみるとわかります。鷹山は17歳で藩主になりますが、藩政の改革のために、自らが率先垂範して、徹底した倹約に努めると共に武士自らが農民の手本をなることを徹底させます。

   彼の言葉、「してみせて 言って聞かせて させてみる」を実践して藩の財政を健全化し豊かな藩に改革します。

 また、彼は有名な言葉「為せば成る 為さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の 為さぬなりけり」を残しています。
 

 

 

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