日々の思い

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ほどほど人生論

 3月16日(火)中日新聞朝刊に
ひろさちやのほどほど人生論が載っていました。
普段は朝は忙しいので、新聞の見出しだけくらいしか見ないのですが、
なぜかこのコラムは読んでしまいました。
見出し<死の恐怖を克服する−修業を積んでもムリ>が
インパクトが強く、
自分が潜在的に不安に思っていることだったからかもしれません。
なかなか示唆に富んだ内容だったので、
皆さんにも読んでもらいたいと思いますので、
全文をそのまま書きます(*^_^*)。

**********
 山伏が一休禅師い験比べ(けんくらべ)を挑みました。
験比べというのは、修験者が修験の程度を競うことです。
 
 まず山伏は、きゃんきゃん吠えている犬を
呪文でもって鳴きやめさせようとします。
けれども、いくら呪文を唱えても犬は鳴きやみません。
次は一休禅師の出番です。
彼は持っていたおにぎりを犬にやります。
すると犬は、たちまちおとなしくなりました。

 そこで山伏は、今度は燃えている火を
呪文で吹き消すことにしました。
でも、山伏がいくら呪文を唱えても火は消えません。
ところが一休禅師が、その火にじゃあと小便を引っかけました。
もちろん、火はすぐに消えてしまいました。

 また、こんな話しもあります。
釈迦が旅の途中で、一人の苦行者に会いました。
なんだか疲れ切った様子です。
釈迦は「あなたは何年間、苦行をやっているのですか?」と尋ねました。
「二十五年」と苦行者は答えます。
次ぎに釈迦は「その結果、あなたは何を得られたのですか?」と尋ねました。
「水の上を歩いて川を渡れるようになりました」
と、苦行者は得意げに言います。
すると釈迦は、「あなたは馬鹿ですね。
なにも二十五年も修業をしないでも、舟賃さえ払えば、
船頭が向こう岸に渡してくれるでしょうに……」
と、あきれ顔で言いました。

 こうした類の話は、いくらでもあります。
死の恐怖をなくすには、どうな修業をつめばいいのですか?
ときどきそんな質問を受けることがあります。
たぶん質問者は、仏教を勉強すれば
死の恐怖を克服できると思っているのです。
だが、それは違います。
いくら仏教を勉強しても、死の恐怖なんてなくなりません。
仏教でもって死の恐怖をなくそうとするのは、
それこそ呪文でもって火を消そうとするのと同じです。

 いや、かりに死の恐怖を克服できるとして、
そのために二十五年も修業に打ち込むのは、
ちょっと馬鹿げていませんか。
私はそう思います。

 では、どうすればいいのでしょうか?
死の恐怖を克服しようと思わなければいいのです。
誰だって死ぬのはこわい。
死が怖くない人なんて、一人もいません。
そうであれば、死を怖がればいいのです。
無理に呪文でもって死の恐怖を克服しようとせず、
<ああ、こわい、こわい>と怯えていればいいのです。
それが仏教の考え方だと思います。
(宗教評論家) 
 

 

 

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