圓光寺の歴史                   

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  檀家各位に以前『圓光寺略史』という冊子をお配りしたことがございます。
以下はその『圓光寺略史』を用いて圓光寺の歴史についてご紹介させていただきたいと存じます。
皆様の檀那寺たる圓光寺について、ご理解を深めていただければ幸いと存じます。

  内容:  一 草創時代
        二 「圓光寺」の誕生
        三 墓園の開設
        四 関東大震災と圓光寺の移転
        五 昭和時代
        六 現本堂の建築
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  草創時代

  派祖西山上人が関東で初めて念仏を弘通せられた鵜の木の光明寺や、上人の孫弟子行観上人が「選擇集私記」を著述せられた宝幢院ですら、時代の流れと共に西山の縁りを離れて他宗派所属となり、西山派は明治維新以来箱根の東にはその法灯を継ぐもの絶えて久しく、従って宗派当局に於いても門末一般に於いても関東に一寺を建立したいというのが共通の悲願でありました。
  明治十八年(推定)愛知県碧海郡(現在岡崎市)善國寺住職安井隆道上人(当時三十九歳)は東京に浄土宗西山派の寺院建立を志し京都西山総本山光明寺、同東山総本山禪林寺両本山の内意を受けて、その悲願実現の為単身上京されました。(上人は名古屋市熱田堀之内の出身にて相好円満、高徳兼備、特に布教に秀でた才能を持たれ、若き時より高僧の風格のある和尚で、寺院の経営にも勝れた才能を持たれた方でありました。出京する以前に既に愛知県熱田の法勝院、同刈谷の大悟寺、同岡崎の善國寺等の住職を歴任して衰徴した各寺を復興されました。)
  上人は寺院設立の前提として先ず布教活動をして信徒を獲得するのが第一歩と考えられました。しかし上京しても一人の知人とてなく、頼りとする據点もなかったので、東京中央の繁華街の地、即ち日本橋北河畔に於いて連日辻説法をされました。この縁によって段々と信者ができ、就中当時の魚市場(大正十年まで日本橋川の北河岸に所在した)の頭取、初代青木治助氏は上人の法話を聴き、痛く感動され、本小田原町(現日本橋本町)の自宅の一隅を提供して種々の便宜と支援を供与し、教線の拡張に大いに寄与されました。爾来、同家は数代に亘り永く当寺の外護者となられております。

  翌明治十九年、幸いにして両本山よりの特別の御援助及び九條公爵家、徳大寺公爵家ならびに前記青木治助氏その他多数の信徒衆の御支援により、徳川時代の傳馬町の牢獄跡で、その故を以って当時まだ更地であった土地の一部(日本橋小伝馬町)を寺院の敷地として購入することができ、続いて小さい堂宇を建立することができました。ところが当時の法規(この法規は昭和二十年終戦まで有効)では我が国内地では寺院移転のほかは新規に寺院を設立する事は許されざる事が判明したので、余儀なく佛堂を名乗る事とし、よって総本山光明寺奉安の圓光大師ならびに見真大師(誕生姿)両御尊像の御分身を勧請して、新佛堂の御本尊として奉安して、名称を「大師堂」と称し、通称、「両大師さま」ともいわれ、ここに両本山別院大師堂が誕生しました。
 かくて翌明治二十年に至り、関係者一同の不撓の努力によって堂宇、付属建物の新増築工事が順調に進み二十年十二月には煉瓦建土蔵造り建坪約四十二坪の本堂、以下木造二階建五十坪の書院並びに同二階建六十二坪の庫裏等の諸建物が竣工して、名は仏堂でも現実は立派な寺院の様相をした伽藍が完成しました。
  大師堂の主管者は創建者安井隆道上人でした。前述の如く立派な建物ができましたが、何の資金もなく、宗派よりも殆ど物質的支援もなく、余り多からぬ信徒のみでこれを維持発展していく事は容易ならぬことでありました。当初数年間は若い修行僧(学徒)を多数寄宿させてインド風の僧院生活が営まれました。即ち毎朝若き学僧は数人ずつ三組に分かれて鉦を叩きながら僧服わらじ履き姿で下町の街頭を托鉢して歩き、その得た浄財によって生計を立てた由で、当時「圓光さんの托鉢」といって下町の名物になっていたそうです。午後は布教に努め一、三、四、六、八、九の日と二十五日(宗祖日)の計一ヶ月十九日の月例説教日があり、説教を開筵せられました。また春秋のよき季節には、信徒中の有志の家へ一晩ずつ宗祖大師の御尊像を奉安した小さい御厨子をもって出張し、夜六時から八時半ごろまで「御宿」(オヤド)即ち「宗教の夕」の会を催し、集まった子供達におとぎ話を聞かせ、成人には仏教の話をしたり和讃を唱えさせたりして布教伝道に努めました。なお、別途に大師堂維持有志者を募り、「元祖講」「二厘講」「柳栄講」の三講社を組織発足されました。
  

開     基住職(傳空隆道)時代の総代芳名(敬称略)

      青木 治助(初代)、仲 萬兵衛、宮田 貞吉、森田 惣兵衛、青山 藤

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 二 「圓光寺」の誕生

  主管上人は前述の如く布教の大家でありましたので各地より招請がしきりで、その上明治二十七年には紀州総持寺(現西山浄土宗檀林)へ進董され大師堂に常在は不可能でしたので、明治二十五年より約十年間、主管の法類の一人磯部寛聞師が大師堂法務主任(当時は事務長と称す)として大師堂の経営に当たられました。そして同師の温厚な人柄により法燈の維持発展が行われました。
  その後同師が愛知県常滑市正住院住職として進董の後を受けて明治三十五年頃主管者の高弟にて師籍の岡崎善國寺を継承された内藤隆觀上人が大師堂の法務主任になられました。
  上人は若くして京都本山と比叡山にて内外典を学びし後、上京して明治時代仏教学の碩学、浅草の織田得能師に師事して更に仏教学を修めた、信仰心篤き識見高い能弁の和尚でありました。また先見の明ありて次の如き種々の行蹟を残されました。
  明治三十九年当時大師堂は区立十思小学校と同上町小学校の間に介在して互いに不自由でありましたが、時の代議士高木益太郎氏、実業家仲萬兵衛氏等のご協力を得て、敷地交換の議をまとめ大師堂を本銀(ほんしろがね)町通りと火除(ひよけ)橋通りの角地に移転することに成功しました。
  次いで創立依頼懸案であった大師堂の寺号公称につき種々奔走、複雑な手続きの末、遂に明治四十一年九月十八日東京府の許可を得て佛堂大師堂は寺院資格を得て現称「圓光寺」となり、ここに待望の両本山別院圓光寺が実現しました。この功により安井上人は初代住職を拝命し「開基」の称号を総本山より允許(いんきょ)せられました。
  明治四十四年一月初代上人大本山圓福寺(愛知県岡崎市、現西山深草派)へ進董につき法務主任興空隆觀上人が第二世住職を拝命されました。
  大師堂建立より大正五、六年頃までは電話郵便が未だ普及せず、檀信徒への連絡はすべて人によって行われました。例えば正月は檀信徒宅への年始廻り、次いで御忌法要の御案内廻り、三月は彼岸法要の御案内廻り、七月御中元配り(うちわ二本宛)、九月彼岸法要御案内、十月十夜法要御案内、十二月御歳暮配り(養老味噌)等にて随身徒弟の労苦は並々ではなかったようです。
  当時はまた神社仏閣への朝詣りが流行いたし、下町の大店の主人やお内儀連が競ってお詣りされたものです。大師堂でも本堂観音堂に万年蝋という灯を仏前に点じて御参詣の人を待ち、朝六時から夜十時(冬季は九時)まで正面の大扉を閉めずにいました。或る篤信家は毎朝又は毎晩参詣して黙って上堂して般若心経などを読誦なさるものもあり、或は若僧相手に雑談し囲碁将棋に興ずる方もあり寺は本当に現代の倶楽部の役割を果たしていました。従って随身僧は大変忙しい毎日でした。
  明治四十年頃、二世住職は世の中の動向を察して従来の月例説教会をやめて新たに宗伯爵母堂様を会長とする「佛教能忍婦人会」を組織し、毎月十二日を例会日と定め、当時有名な文博南條文雄師、斎藤唯信師、金森諦成師等を招いて講演会を開き、毎回百名以上の来会者ありて東都第一の盛大な佛教婦人会となりました。会員には江木貴族院議員婦人仲子様、牧野子爵母堂勝子様、岩佐男爵夫人、松平伯爵夫人、東京紡績社長夫人田村長子様をはじめ当時の名流夫人が多数参加されました。この能忍婦人会は昭和二十年圓光寺大蔵引き揚げまで続きました。
  又二世住職は若き実業家の宗教団体「青年浄道会」を興し、当時新進の渡辺海旭師(後の芝中学校校長)が毎回出講して布教し、大いなる成果を挙げました。この会は大正十二年関東大震災まで続きました。
  更に二世住職は外郭信仰団体である「唯信会」を指導し、しばしば出講して政治家、高級陸海軍将校連に念仏の教を広めました。                                  
                 
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  墓園の開設

明治三十年後半より、地方出身の同じ宗派の人々、又は大師堂近くに住む人々から入檀希望者が相次ましたが、専属の墓地がなき為、やむを得ず他宗派の寺の檀徒として離れ去られる有様で、二世住職は専用墓地の獲得に苦心されました。そして諸種の事情を考慮した結果、当時の総代二代目青木治助、二代目村田茂七(篤彦)両氏よりの特別の融資を受け大正五年十二月福田某の仲介により府下北多摩郡砧村大蔵(当寺現存地)に土地を購入して「大蔵談林」と命名しました。
 大正八年春、この土地の御本尊を作ることを発願し、特に江守善六、新谷豊吉両氏、その他多数の檀信徒の後援を得て、仲省吾氏の紹介により、当時の鋳金界の第一人者帝室技芸院会員津田信夫氏に依嘱して聖観世音菩薩像を造りました。

同年には浄土宗西山派が三つに分派して浄土宗西山禪林寺派、同西山光明寺派、同西山深草派となり当寺は両本山協議の結果、浄土宗西山禪林寺派所属の檀林礼遇地となりました。前述のように墓地用地として大蔵に土地を購入しましたが、小伝馬町(省電経由)→渋谷(玉電経由)→用賀(徒歩)→大蔵の順路で片道三時間を要し、折角の同所を訪れてもあずま家で少時腰を下して休んで直ちに帰路につくのでは負担が大きいとと考え、大正八年夏、休憩所兼留守番の居住の家(のち一期間は庫裏となる)を建築しました(近藤棟梁)。そして翌九年秋、予て出来上がって小伝馬町本堂の一隅に安置してあった聖観世音菩薩御尊像をここに仮安置しました。
 墓地の新設は東京府役所開所以降初めてのケースで、手続き困難を極めましたが、時の警視庁外事課長池田清、東京府土木課長正木虎蔵両氏の特別のお力添えにより大正十年十二月に許可になりました。

二世住職(興空隆観)時代の総代芳名(敬称略)

青木 治助(二代目)、仲 萬次郎、村田 茂七(二代目)、宮田 幸作、青木 栄二郎、三田 松三郎

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 関東大震災と圓光寺の移転

大正十二年一月一日より三月二十九日まで二世上人は佛恩報謝のため、日本郵船主催本邦最初のインド
佛蹟参拝団に参加、釈尊四大佛蹟を参拝されました。三ヵ月に及ぶ大旅行でした。同年九月一日午後三時頃、関東大震災による火災にて当寺の伽藍は全て焼失、表門の石の門柱2本だけが残りました。住職は御本尊、過去帳を捧持して寺族九名とともに二重橋前広場に一時避難し同所で二夜を明かし、三日大蔵談林に避難しました。しかし直ちに焼け跡に引き返して天幕生活を営みながら、呉服橋畔、土州橋畔、浅草橋畔に角塔婆を建て毎日焼死者の供養を続けました。
 そして住職大奔走の結果、本山その他より融資を得て、十月より焼跡整理に着手して本堂兼庫裏建坪約七十五坪のトタン屋根入母屋造りの建物建築にかかり、十二月末日竣工して御本尊はじめ寺族一同旧住所に復帰しました。
 これは日本橋の建物復興第一号で日本橋区役所も大いに歓迎し表彰を受けました。
大正十三年五月、大蔵敷地内に施主二代目江守善六氏の御寄進により赤御影石造りの観音堂(現存)が竣工して入佛法要を嚴修しました。
大震災の被害は東京では下町方面が最もひどく、当寺の檀信徒の大多数の方々が罹災し従って当寺の復興が未だ緒に就かなかった大正十四年十二月二十四日、二世興空隆観上人が急病のため遷化されました。五十三歳でした。その時法資隆諦は帝大文学部を出て旧制山形高校に奉職中でしたが、遺言に従って教職を辞して帰京しました。しかし当時圓光寺は師資相続の規定がなかったので、法嗣は総代青木之介、宮田幸作並びに恩師の親友、京都蛸薬師妙心寺山本老師を帯同、総本山へ登山して前後二日間種々の折衝の上、ようやく後任住職の内命を受け、大正十五年一月二十日先師表葬の日、正式に圓光寺第三世住職を拝命しました。そして住職拝命と同時に「別院」号を返上しました。
 昭和二年、震災後の土地区画整理で寺の敷地が南方へ約一丁移動することになったにつき総代と種々の協議の結果、寺と墓地が離れているのは不便であり、また近い将来大蔵も交通が便利になるであろうとの理由で、これを機会に圓光寺を日本橋より現在の地、大蔵に移転することに決定しました。そして東京府の許可を得て、また総代二代目村田茂七(篤彦)氏より無利息融資の御支援をいただいて、昭和三年春日本橋小伝馬町替地に木造二階建の圓光寺寺務所(建坪五十二坪)と、続いて大蔵に建坪三十坪の本堂と庫裡の一部を増築しました。(芳野棟梁)この際本堂佛前大前机は竹村安太郎氏により、蓮の御常花一対は村田茂七氏より、礼盤一式は吉田菊太郎氏より、人天蓋は村田家別家一同より、小伝馬町御内佛御本尊ならびに付属仏具一式は村田志成子様(茂七氏母堂)より奉納いただきました。また同じ頃、小伝馬町に借金返済の資とするため店舗向け四戸、住居向け一戸の貸家を建造しました。
 「圓光寺寺務所」はのちに「圓光教会」と組織を変え、施餓鬼等の定期法要および檀信徒の大法要は大蔵の本坊にて修し、小法要は圓光教会で行うこととしました。


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 昭和時代

 圓光寺を大蔵に移転してからの約十年間、住職は昼間その本務に精進し、夜はアルバイト(家庭教師)をして、檀家にご迷惑をかけることなく先代以来の寺の負債を皆済して、寺を経済的にやや安定させました。昭和十六年三月二十七日西山三派が合併して「浄土宗西山派」となり圓光寺は西山派所属となりましたが、昭和二十三年、再び西山派解体により、元の「西山禪林寺派」に復しました。
昭和二十年三月十八日付の建物強制疎開命令により、圓光教会および貸家の建物がすべて撤去され、住職は四月一日より大蔵本坊に引上げ、以来ここに定住することになりました。
 大正末期頃までは檀信徒名簿をはじめ寺院備付諸帳簿が一向に整備されていなかったので、当主が替わればそのまま縁が切れてしまう場合が多く、加えて関東大震災、戦争による火災、当寺移転などの各種の要因が相重なって多数の古い信徒の方々との袂別の哀しき不運がありました。
 三世住職はこれらの諸点に特に注意を払い当寺復興に努めましたが、戦後東京に残留されていた檀信徒の方々は僅か二十数家で、また交通不便の故もあって、戦後の数年間は寺としての用務は殆どなく、住職は境内の空地を利用して食料増産に精進しました。その後疎開されていた檀信徒の方々も段々復帰され、また新たに檀家に加入される方々も年とともにふえてきたので、寺もどうやら面目を維持できるようになりました。
 昭和二十八年に至り、旧庫裏の北側に二階建て建坪二十坪の庫裏を増築、翌二十九年春本堂内外陣天井張替え、欄干取付け、壁塗替え、トタン屋根張り替え、玄関脇建坪八坪二階家増築工事施工(天野棟梁)、続いて三十五年初夏には寺族のための別家と本堂西側廊下増築、水洗便所建設諸工事を施工しました(河村工務店)。
 昭和三十六年五月宗祖大師七百五十大遠忌を記念して、総本山禪林寺八十三世軌空大僧正を招請して五重相伝を嚴修し、それを機会にその時まで定まっていなかった山号を「月輪山」と選定しました。
昭和四十二年春、檀信徒各位の御協力を得て、旧庫裏建物を解体し瓦葺き平屋建五十七坪の客殿、ならびにその北側旧庫裏とトイレ建物中間に二階建二十一坪の庫裏を増築(昭栄建設)、また昭和五十二年春には正門前区道の舗装、五十四年春、ブロック塀も出来上がり、本堂を除いては寺の建物、境内地の整備も一応完了し、檀家の数もますます増加して寺の基礎もようやく安定しました。

三世住職(聽空隆諦)時代の総代芳名(敬称略)
青木 之介、仲 萬次郎、村田 茂七(二代目)、宮田 幸作、三田 松三郎、
仲 威雄(責任役員)、村田 頴亮、尾関 國義、尾関 進、石澤 義一、伊藤 政

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   現本堂の建築

 戦後の混乱を乗り切った、三世聽空隆諦上人が昭和五十四年四月二十八日に住職を辞任し、替わって祥空壽昭(現住職)が圓光寺第四世住職に就任しました。昭和五十七年八月十日、三世聽空隆諦上人が遷化されました。世寿八十五才の大往生でした。その後、現住職は本堂の建築に着手しました。以下、完成までの流れを記します。

・昭和59年11月15日
   
総代会で本堂立て替えを議決
・昭和60年2月23日
   第1回建築委員会開催、爾来11回開催
・昭和60年5月27日
   宮上茂隆氏と設計監理契約
昭和60年6月1日
     檀信徒各位へ寄付依頼書発送
昭和60年12月7日
     設計図できあがる
昭和61年1月24日
     大手建設会社6社より見積書提出
昭和61年3月5日
     大成建設株式会社と正式契約
昭和61年4月11日
     起工式・工事開始
昭和61年4月29日
     地鎮祭
昭和61年11月30日
     上棟式
昭和62年5月29日
     建物完成引渡し
昭和62年10月25日
     総本山禪林寺85世英空儼猊下の御親教を仰ぎ落成慶讃法要嚴修
平成4年6月
     銀行借入金返済完了

 

  ◎ 現本堂について

     264.453u
     屋根 銅板平葺き 入母屋造り
     外講 鉄筋コンクリート造り 塗装仕上げ
     内装 木造(桧材)
 増築部分

        12.421u

        水屋 木造モルタル塗り、銅板葺き

 
     建築委員芳名(敬称略)
       村田 頴亮(委員長
       尾関 進,石澤 義一,伊藤 政直(以上 総代)
       熊田 淳一郎,後藤 昌弘,小林 元常,高橋 明利,竹田 光助,谷口 重夫,仲 徹
       福永 年雄,栃木 一衛(事務局),内藤 哲昭(法資)
                                    

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