『本当にいいんだな?お前、誰か好きな女はいないのか?』
『おりません。どうぞよろしくお願いします。』



片岡の返事に目を眇めた景吾。



『なら、いいが・・・』 と、溜息と共に書類に目を落とした。





社長から勧められた相手は、開発部長の令嬢だった。
悪い話ではないだろう。


何の感慨もなく了承した片岡以上に、彼の心配をしたのは景吾だった。



『無理することはない。好きな女がいるなら断わっていいんだ。
 俺が間に入るから余計な気をまわすな。』  と、まで言ってみたが。



『専務。お心遣い、ありがとうございます。』  と、片岡は静かな笑みを浮かべただけだった。





この時。


片岡には、本当に誰もいなかったのだ。
心惹かれる女性にも、会ったことがなかった。





大事にしてきた専務は、周囲が驚くような恋人を妻にした。
片岡は『本物の愛』なんて、それまで信じていなかった。


けれど、不可能と思われた壁を越えて。
慈しみあって寄り添う二人を見て『愛する』ということについて考えらされた。


だが、だからといって、自分にも同じような奇跡が起こるとは思えなかった。


日々、淡々と専務の傍で。専務のために仕事をこなす。
そして、専務を立派なトップにする。


それだけを念頭に動いていた。


そんな片岡に。奇跡が舞い降りた。





出会いは偶然。





「片岡です。こちらは万事、思惑どうりに運びました。はい。今から、社に戻ります。
 いいえ。車は結構です。地下鉄の方が早いですから。
 20分以内には戻りますので、はい。失礼します。」



地下鉄の階段を降りながらの電話。
予定通りに運んだ仕事にホッとして階段を降りきると、閉まりかけたドアに体を滑り込ませた。


入り口近くに立ち、社に戻ったら何から片付けるか頭の中で整理していた。
その時、隣にいた女性が自分の袖を引いているのに気が付いた。


視線を向ければ、赤い顔で、瞳に涙を溜めて自分を見上げている。


頭の回転の速い片岡。
すぐに彼女の耳元に口を寄せて「どの男ですか?」と聞いた。


しかし彼女は何も答えない。
再び顔を覗き込むと、更に泣きそうな顔をして首を横に振った。
そして、自分の耳に手を当てると、もう一度首を横に振る。


ひょっとして・・・耳が?


その時、彼女の胸の辺りに伸びてきていた男の手が視界に入った。
彼女が体を固くして、ぎゅっと目をつぶる。


片岡は迷わず伸びてきた手を掴んで、開いたドアと共にホームへ男を引っ張り出した。





彼女は聴覚障害者だった。


相手の唇を読むことで、言っていることは理解できる。
片岡も共に警察の事情聴取を受けた。


交番から外に出て、すぐに社へと連絡を入れる。
予想外のことに時間をとられてしまったと、
自分の運のなさに苦笑しながら、次の予定を立てていた。


携帯を胸のポケットに仕舞って振り向けば、彼女が微笑んで頭を下げた。


唇だけで


『ありがとうございます』 と言いながら、差し出したメモにも


『ありがとうございます。お礼がしたいのですが、連絡先を教えてくださいませんか?』 と、書かれていた。


片岡は彼女に読み取れるよう、心持ちゆっくりと口を動かした。



「いいえ。当然のことをしたまでです。お礼など、必要ありません。私は急いでますので。これで、失礼します。」



彼女がじっと片岡の口元を見つめる。
その眼差しに、片岡は途惑った。


こんなに真っ直ぐ見つめられるのも、妙な気分だな。


片岡が喋り終わると、彼女が首をぶんぶんと横に振る。
それじゃあ、気がすまないと、態度で思いっきり現しているのが可笑しくて、片岡が微笑んだ。



「本当に、いいんです。」
『ダメです!』


彼女が両手で、バッテンの仕草をする。



「僕、本当に急いでるんですけどね」
『め・い・し。名刺、下さい。』



メモに書く時間も惜しんで、唇だけて伝えてきた。





・・・参ったな。





彼女は、じっと片岡の顔を見つめて返事を待っている。
その視線には負けてしまう。


早く社に戻らなくては、35分のロスだ。
腕時計を確認すると溜息をついて、胸ポケットから名刺入れを出す。


彼女に名刺を差し出すと。
途端に彼女が満面の笑みに変わった。


片岡は驚いた。
不意打ちで、とても綺麗に彼女が笑ったから。
一瞬、反応が出来なかった。



『ありがとう』 と、また頭を下げた彼女。


顔をあげて。もう一度、片岡に微笑んだ。





やっぱり。とても綺麗な笑顔だった。




















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