
「専務。例のお話ですが・・・日にちは専務がお決めください。私は、それに従います。」
デスクの前に立ち淡々と告げる片岡に、景吾は手にした書類から顔をあげた。
「お前、それで本当にいいのか?」
「結構です。」
チッ・・・と内心で舌打ちをする景吾。
ちっとも結構ではない顔をした片岡。
片岡が景吾の変化を誰より早く見抜けたと同じように。
長く片岡をそばに置いている景吾にも、彼の変化はすぐに分かった。
片岡にこんな顔をさせるのが誰なのかも・・・知っている。
景吾は、妻と共に何度かあの店に足を運んでいた。
だから店主の娘とも会ったことがある。
妻は、すぐに彼女と仲良くなってしまった。
人懐っこい、素直で可愛らしい子なの、と。妻の評価はベタ褒めだ。
片岡のような硬い人間には、ピッタリだろう・・・などと、夫婦で話していたのに。
それほど出世欲がある風でもない。
景吾を支えることに生きがいを感じているような片岡だ。
部長の娘との結婚に固執する必要もないだろう。
何をグズグズ考えてるんだ?
片眉を不機嫌にあげて、見上げてくる景吾の視線にも気づかずに、片岡はデスクに視線を落としている。
面倒くせぇ・・・と思いながらも、景吾は彼の背を押してやることにした。
「結婚する前、俺はジローに聞いた事がある。
『好きな女と・・・生きていきたい。それは、我儘なことか?』とな。
そしたらアイツ。ゲラゲラ笑いやがって、こともなげに言いやがった。
『そんなの、当たり前。人生なんて一回きりなのに。
好きな女じゃなくて、誰と生きるのか。我儘とか、そういう問題じゃない』 ってな。
アイツは脳天気なヤロウだが、真っ直ぐに物事を見てる。」
片岡が顔をあげた。部屋に入って、初めて景吾と目を合わせた。
「俺は、好きな女と生きてる。あの時、諦めていたら・・・一生後悔しただろう。
お前はどうだ?後悔、しないのか?」
逆光の景吾。
背中から光りを浴び、デスクに肘を突いて片岡を見上げている。
促すように穏やかな瞳の景吾に。
自分の中にある想いは、彼に理解されているのだと知った。
片岡は深々と頭を下げる。
自分の想いを遂げるために。
「すみません。後のことは頼みました。」
「はい。あ・・・あの、何かあったんですか?」
専務室から飛び出してきたと思ったら、今から年休を取ると言い出した片岡に他のスタッフが慌てた。
テキパキと指示を出すと、さっさと帰り支度を始めてしまう。
仕事第一。誰よりも早く出社し、誰よりも遅く帰る。
年休どころか週休さえ満足に消化していない、彼の突然の行動に皆が訝しがった。
「何かあったというか、これから何かあるんです。」
「はあ。」
「僕の一世一代の大勝負なんです。うまくいくように祈っててください。」
スタッフが顔を見合わせる中。
片岡は軽やかに笑って、秘書室を出て行った。
「片岡さん、楽しそうでしたね。」
「あんなに笑ってる彼を見たのは・・・初めてかも。」
扉の向こうで噂話が飛びかっている頃、景吾は社長室に電話をかけようとしていた。
さて、どうやって断わるかな。
今週末にでも、孫を連れて行って機嫌をとるか?
頭の中で策をめぐらせつつ、片岡の幸せを思って口元が緩む景吾だった。
赤い屋根の店を目指す。
歩く足が走り出しそうに速くなるのが止められない。
「今から会いに行きます」 と、駅からメールを送った。
『どうしたの?』 と、すぐに返信が来た。
「あなたに会いたくなったから、会いに行きます。」
『どうして?あの日から、メールもくれなかったのに。私のこと、迷惑なんじゃないですか?』
「すみません。僕が・・・馬鹿だったんです。あなたを・・・幸せにする自信がなかった。」
『私、あなたの傍にいられるだけで幸せなのに』
「僕もです。僕はあなたを・・・」
そこまでメールを打ったところで、店の前に立つ彼女の姿が目に入った。
片岡は書きかけで送信する。
すぐに彼女の携帯から、鮮やかなグリーンの光りが輝いた。
彼女が携帯を開いてメールを読んでいる。
その間に、片岡は一歩一歩彼女に近付いていった。
近付いていくにしたがって、彼女の表情が分かる。
片手で涙をぬぐいながら、携帯のボタンを押している横顔。
「僕はあなたを・・・」 の続きを促すメールでも打っているのだろうか。
自然に言葉が出ていた。
早く気付いてくれ!と、心の中で念じつつ口にする。
「さん!僕はあなたをっ」
一瞬強い風が吹いた。
彼女が目を閉じて髪をかきあげる。
風がやみ、ゆっくりと開いていく瞳が、歩いてくる片岡を捕らえた。
彼女に通じるように、言葉を区切って告げる。
「あ・い・し・て・い・ま・す」
携帯を握り締めた彼女の瞳から、ポロポロと涙が零れていく。
そのまま真っ直ぐ彼女のもとに向かうと、立ち尽くす細い体を力いっぱい抱きしめた。
「愛してます。あなたを・・・心から。」
抱きしめながら囁く言葉。
彼女は、腕の中で何度も頷いた。
耳には聞こえなくても。
彼が私に告げているのを感じる。
愛の言葉を。彼は、私の心に囁いてくれている。
あなたの声が。心に聞こえるよ?
『あいしてます。わたしも・・・こころから』
彼女は顔をあげて。
一生懸命、言葉を紡ぐ。
発音はハッキリしない。
僅かに残っている音の記憶を頼りに、紡いだ言葉。
それでも。片岡には、ちゃんと届いた。
「僕と結婚してくれませんか?」
彼の問いに、彼女が微笑んだ。
柔らかに咲いた、花のように美しい笑顔だった。
「花」番外編〜もう一つの花〜
2005.03.20
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