
それは、僅か30分ほどの時間だった。
片岡が彼女のために、無理矢理ひねり出した時間。
暖かな陽射しが溢れる晩秋の午後だった。
店は定休日。彼女だけが、彼を待っていた。
小さなガラスのテーブルを挟んで彼女と向かい合う。
久しぶりに会った彼女は、とても美しかった。
彼女は子供のような純粋さを持っている。
耳が不自由なぶん、耳から入る汚いことを知らずに生きてきたのだろうか。
とても綺麗な目をしていた。
彼女の焼いたチーズケーキとハーブティー。
窓の外、街路樹のポプラは鮮やかに染まり、葉は揺れながら落ちていく。
片岡は外の景色よりも、彼女から目が離せなかった。
彼女を前にして、心から彼女に会いたかったのだと確信する。
油断をすれば、テーブルに置かれた彼女の手を引き寄せてしまいそうなほど愛しく思えた。
なんてことだ・・・と思う。
今さら恋をするなんて。
彼女と僕は、いったい幾つの差があると思っているんだ。
それに。部長の娘さんとの縁談も了承してしまった今。
どうしようもないじゃないか。
片岡より、ひとまわり近く年下の幼い彼女は素直に好意を表してくる。
彼女のメール。言葉、表情から。
少なからず自分に寄せられる好意を感じるのは、自惚れではないだろう。
『綺麗でしょ?』
彼女の文字が問う。
「ええ。綺麗です。」 あなたが。
心の中だけで、告げた。
『私ね、子供のときに薬の副作用で聴力を失ったの。だから、お父さんやお母さんの声は覚えてる。
でも、私の覚えてる声が本当の声と一緒かは分からないけど。
あと、波の音。雨の音。風がポプラを揺らす音。電話のベルの音とかも、少し覚えてる。』
「そうなんですか。」
『だから聞こえなくなっても、そんなに聞きたいなって思うことなかった。
でもね・・・今。もの凄く聞きたいものがある。』
「なんです?」
『あなたの声』
「・・・・。」
『片岡さんの声が聞きたい』
ポタ・・・っと、ホワイトボードに涙が落ちた。
片岡は、たまらず席を立つと、
彼女の隣に跪いて、そっと震えている肩を抱き寄せた。
彼女の嗚咽が小さく響く。
初めて聞いた彼女の声に、片岡も胸が締め付けられるようだった。
そのまま彼女を抱きしめて、慰めるように髪や背中を撫で続けた。
せめて自分のぬくもりが、彼女の心に届くようにと。
「じゃあ、また」
『また』
夕焼けの街路樹を背に、彼女が健気に微笑んだ。
「髪に何かついてますよ。」
そう告げて。
片岡は彼女に近付くと、まるで抱きしめるかのように体を寄せて髪に触れた。
恥ずかしがる彼女が俯くから、彼女に口元を見られる心配はない。
片岡は囁いた。
聞こえない彼女の耳に・・・すべての想いを込めて。
「あなたを愛しています。心から。
だから、幸せになってください。
もう・・・会いません。さようなら。」
届かない言葉。
体を離した片岡を見つめて、彼女がニコッと笑った。
愛の言葉も、別れの言葉も知らず、彼女が微笑む。
それがどうしようもなく切なくて。
それでも、彼はいつもと同じように彼女と別れた。
また会う約束をしていた、あの時と同じように手を振って。
愛した女性と別れた。
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