花信風 1
『かしんふう?』
『ああ、花信風だ。春から初夏にかけて吹く、花が咲くのを知らせる風だ』
『綺麗な言葉だね』
『そうだな』
手塚君は眩しそうに空を見上げていた。
その視線の先は桜の枝。
蕾を揺らす柔らかな風が知らせたとおり、翌週には桜が美しい花を咲かせた。
「先生、部誌をお願いします。」
声を掛けられて、ぼんやりとしていた意識を引き戻される。
職員室から見える桜の花に過去を思い出していた。
毎年のことだが、この季節は感傷的になってしまう。
息の長い感傷だと溜息をつきながら、差し出された部誌を受け取った。
「練習メニューは全て予定通りに終わりました。」
「ありがとう。明日はコートに顔を出せると思うから。」
「あの・・・」
テニス部の部長が言いにくそうに視線をそらす。
何か悩みでもあるのかと思い「どうしたの?」と問えば、一呼吸を置いて彼が視線を上げた。
「先生は、あの有名な手塚コ−チと同級生だと訊きました。
今も連絡は取り合ってますか?というか・・・俺に紹介して欲しいんです。」
私は表情こそ変えなかったけれど、喉の奥が引き攣っていた。
まさか、さっきまで考えていた人の名前が教え子から出てくるとは想像もしていなかったからだ。
「確かに・・・同級生だったけど、今は」
「やっぱり連絡とかは取り合ってないんですか?なら、どなたか今も付き合いのある人を知っていませんか?」
「片山君、急にどうしたの?」
私は混乱する頭で訊ねる。
すると17歳の彼は強い瞳で私を見返すと、ハッキリとした声で言った。
「俺、アメリカに行ってテニスがしたいんです。」
ああ、あなたも・・・
決意を滲ませた口元に、あの日の手塚君が重なった。
菜の花が土手に揺れていた。
手塚君の髪が風に吹かれて揺れるのと同じように、黄色い花が揺れる。
春の風は少しだけ冷たくて、それでも香りが違う。
この手に留めようとしても出来ない。
それは移り往く季節と同じ、足を止めることはない。
『俺はアメリカに行く』
『うん』
『すまない』
ううん、謝らないで。
全国制覇の夢を果たした手塚君が、次の目標を遠い場所に定めていることぐらい気付いていたよ。
気付きながらも知らないふりをしていたのは、それが私たちを別つ事になると知っていたから。
『頑張って、手塚君。応援している』
笑えているか分からなかったけど、精一杯に笑ったつもり。
手塚君は私の顔を見ると眉を寄せて手を伸ばしてきた。
乱暴にも思えるほど強く引き寄せられ、壊れそうなほど抱きしめられた。
私は大好きな手塚君の匂いに顔を埋めて、もう聞くことはないだろう彼の鼓動を聞く。
少し早い鼓動と一緒に聞こえたのは、
ありがとうの囁きと、春を呼んだ風の音だった。
私の前で箸を持つ人が瞳を大きくしている。
「お醤油いる?」
「いや、いい。で?突然に手塚の連絡先って、どうしてか訊いてもいい?」
「テニス部の子がね、アメリカ留学を希望しているの。それで・・・手塚君にって、頼まれて。」
後ろめたい話でもないのに居心地が悪い。
けれど大石君は直ぐに合点がいったようで、いつもの穏やかな笑顔を浮かべた。
「なるほどね。どうせアメリカに行くなら、一流コーチの指導を受けたいってことか。
あの子だろう、片山君だっけ?彼はイイ選手だから。」
今でも後輩たちの試合を応援にきてくれる彼は片山君を知っていた。
それなら話は早いと少しだけ肩の力を抜いた時、大石君があっさりと口にした言葉に私の思考は停止する。
「ちょうど良かった。もうすぐ手塚が帰国するんだ。
だから直接にさ、が片山君のことを頼んでみたらいいんじゃないか?」
「帰国?だ、駄目よ。」
「なんで?」
「なんでって」
口ごもる私に大石君が朗らかに笑った。
「昔のことだろ?」
この人は細やかな気遣いを見せるかと思ったら、とても大らかだ。
私の中にある複雑な感情など無視して手帳を開き、グラスの下に敷いてあったコースターの裏にペンを走らせる。
「でも・・」
「今更、嫉妬なんてしないよ。俺たちだって、終わったんだから。」
大石君は肩をすくめて笑うと、数字の並んだコースターを差し出してきた。
秀一郎と呼んだ時期が確かにある。
温かくて優しい腕の中に包まれて、私は手塚君を失った寂しさを癒した。
彼が嫉妬に苦しんでいるのも知らずに。
友達に戻ろうと言い出したのは大石君から。
その時になって初めて彼の苦しみを知り、再びの別れを体験した。
それでも心の優しい彼は、今も友人として変わらぬ付き合いをしてくれている。
大石君の言葉にどう返していいのか分からない。
コースターを握り締めて言葉をなくす私に大石君がビール瓶を傾けてきた。
「もう何もかも時効さ。すべては運命だよ。」
「運命?」
「そう。人間の努力では及ばない大きな力って確かにある。」
「それは、なに?」
私に話しているというよりは、自分に納得させるような話し振りに首をかしげる。
大石君は勝手にビールを継ぎ足すと、瓶を置いて頬杖をついた。
そして、やっぱり穏やかに微笑む。
「・・・運命には勝てなかったよ、俺はね。」
とにかく電話してみればと一点張りの大石君は、手塚君との仲介をやんわりと断わり続けた。
その夜、私は懐かしい夢を見た。
学生服姿の手塚君が桜の木の下に立っている。
あの長く節の目立つ指で桜の花びらを愛しそうに撫でて呟いた。
『もしも運命というものがあるのなら・・・』
あれは独り言だっただろうか。
花信風1
2008/03/14
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