『お慕いしております〜跡部景吾編〜』 その後 完 











執務室に入ってくるなり名前を呼ばれた。
その景吾の顔を見て、久し振りに忍足は背筋が寒くなった。



誰や。殿の逆鱗に触れたんは!



理由を知るのは、直ぐ。
景吾の執着を甘く見た老臣たちの企ては、二度とは口にできない代物になった。



苦悩は解決したはずなのに、の表情は冴えない。
相変わらず食べ物が喉を通らず、気持ちの悪さに伏せることが多くなる。



「おい。ちゃんと医者に診てもらえ」
「いやです」


「嫌とか何とか言ってる場合じゃねぇだろ」
「いやなんです。御医者様と蛙は昔から大嫌いなんです」



子どものようなことを言い、は景吾に背を向ける。



「その蛙と俺とを比べて、蛙に嫁入りした方がましだと言ってなかったか?
 俺をそんなにも嫌いだったってことかよ、おい」


「殿。病人に向かって大声はどうかと」



言いながら後ろに控えた忍足は笑いを堪えている。



「忍足、いいから医者を連れてこい。俺はコイツに縄でもかけとくから」



ひっと息を吸ったの前で、景吾がこれ見よがしに指を鳴らした。
ハイハイと腰を上げた忍足だったが、戸に手を掛けて何でもないように振り返る。



「医者より、産婆のほうがいいですかね」



景吾とが同時に忍足を見上げる。
にっこりと微笑んだ男を見て、妻を見て、顎に手をあてて考える。
それから再び妻に視線を戻すと、彼女は指を幾つか折ってから、突然のように顔を赤くした。



「では、景吾様の乳母殿に頼んでまいりましょう」



食えない男は丁寧に頭を下げ、足音も軽く去っていく。
取り残された夫婦は微妙な空気の中で、顔を見合わせた。


衝撃から立ち直ったのは景吾のほうが早く、心の底から呆れたような溜息を吐く。



「ふつう・・お前が最初に思い至るもんだろ」
「だ、だって、気持ちが悪くなるほど悩んだから、それで」



頬を染めたまま言い訳する姿に、つい景吾の笑みが零れる。
相変わらず抜けている妻だが、それもまた可愛い。


なにはともあれ、真実懐妊しているのなら言うことなしだ。



「ほら。傍にいてやるから、少し横になれ」



優しい手つきでの肩を抱き、そっと褥に横たえる。
床に黒髪を流したが、幼子のように景吾の袖をつまんだ。
穏やかな愛しさに、景吾は妻の額へと唇を落とす。


そっと間近で漆黒の瞳を見つめ、景吾は囁いた。



「惚れた女が自分の子を身ごもるってのは嬉しいもんだな」



も嬉しそうに微笑んで、目じりから美しい涙を一粒落とした。










季節は巡る。
巡った先に、新しい命が誕生した。


華奢なの腹が膨らむにつれて、本人よりも不安になって騒いだ景吾だったが
案ずるより産むがやすしとは良く言ったもので、思いのほか安産だった。


それでも苦しむ妻の姿に冷静ではいられず、
真面目に他の妾に子を産ませた方が良かったのではと後悔したほどだ。


だが生まれてしまえば、ただただ嬉しい。
細い体で頑張ってくれた妻が今まで以上に愛しくて、この想いをどうしてくれようかと持て余すほどだ。



「殿、また此処ですか。ちっとは働いて貰わんと。俺にも限界があるっていうか」
「忍足。テメェもさっさと身を固めて、子を作れ。可愛いぞ」


「はぁ。まぁ可愛いですけどねぇ」



気のない返事の忍足を無視して、景吾は我が子を抱いてあやしている。
以前にも増して、隙を見ては執務室から消えてしまうようになった景吾に忍足は頭が痛い。


それにしても分からんもんやなぁ。こんなに子煩悩だったとは。


呆れとも、感動ともつかぬ思いで忍足は景吾の姿を見つめる。
その隣には花のように美しい笑みを浮かべたがいた。



愛し、愛された。
この世で巡り合えた奇跡のような幸運を掴んだ男女なのだろう。



「幸せやんなぁ」



誰に言うでもなく呟いた、忍足の視線の先。
蛙が水音をたてて池に飛び込んだ。




















お慕いしております〜跡部景吾編〜その後 完 

2010/04/15




















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