『お慕いしております 〜乾貞治編〜』 最終話
髪を綺麗に結い、ゆるく帯を締めたところで外のざわめきが耳に届いた。
だからといって確かめる気力もなければ、心も動かない。
もとが商家の娘ゆえに素直で可愛らしいと姐さんたちに褒められた。
いずれは店の看板に育てようと女将が客を選んでいるのも知っている。
高価な着物に簪、どれもを美しく見せてくれるけれど、そんなものに興味はない。
鏡の中には生気のない痩せた遊女が立っているだけだ。
客を取りに階下に降りようとしたら、店の者に止められた。
なんでも今宵のを既に買った客がいるらしい。
部屋で待つように言われ、またいつものように夜の川を眺めていた。
随分と待たせる客だと溜息をついた時、よろしいですかと廊下から声がする。
戸を引いて顔をのぞかせたのは、まだ年端もいかぬ下働きの娘と馴染みの髪結いだ。
「どうしたの?」
「それが・・・お客様が新しい衣に着替えて欲しいと」
「そうなの。ありがとう」
大げさに包まれた衣を緊張した面持ちで抱く娘に礼を言う。
たまに遊女の気をひくために衣を贈って着せたがる道楽者がいる。
その類かと差し出された包みを開いて、の瞳がこれ以上ないほどに見開かれた。
「髪も合わせて結い直さないと。腕がなるねぇ」
言った髪結いは楽しそうに笑う。
言葉も忘れたの前に広げられた衣は、ただただ白い新雪のような衣だった。
ほらよ、と差し出された包み。
それはが売られた時の証文だった。
女将は苦々しい顔をしながらも、運のいい子だよと最後には笑った。
「お前は立海にいらっしゃっる柳様という方の養女になったそうだよ
離れた国からの嫁入りとなれば、お前の素姓も分かりにくいからね。考えたもんさ
面倒な手続きとやらは、お前を廓に売った兄とやらが手伝ったようだがねぇ
まぁ・・・ほとんどはアノ腹立たしい男が策を弄したんだろう
どこの世に廓から嫁を出す店があるだろうね。まったく」
女将の話に涙を拭いながら、ずっと会いたかった人を探す。
その視線に気付いた女将は肩をすくめた。
「男なんてのはね、花嫁に会うのは一番最後っていうのが決まりなんだよ」
見た者だれもが口々に感嘆の声を漏らす。
廓に不釣り合いにもほどがある光景に通りがかりの者はもちろんのこと、
店の中からも客や遊女が身を乗り出すようにして見物していた。
赤く照らされる廓の暖簾をくぐり、ゆっくりと進みでてきたのは白無垢に身を包んだ花嫁だった。
花嫁を乗せるために用意されたのだろう駕籠の前には、背の高い男が僅かな笑みを浮かべて待っている。
そっと差し出された大きな手に、顔を上げた花嫁は瞳から涙を溢れさせた。
「乾様・・・」
「待たせたね」
約束を果たした男は安堵したように微笑んだ。
ひとりの遊女が廓から嫁にいった。
純白の衣に身を包み、美しい駕籠に揺られていったとさ。
それは長くお伽噺のように廓に伝えられ、遊女たちの憧れとなった。
お慕いしております 〜乾編〜 最終話
2011/05/24
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