お慕いしております 〜柳蓮二編〜 序幕
は思いもしない運命に流され、ある男のもとに嫁いだ。
それは相手にとっても同じであったろう。
色々な事象がからみあい、結果・・・を娶るしかなくなった。
家と家との結びつきが一番に成される婚姻に個の感情など必要ない。
城に出入りする農民の男と添うのだと嬉しそうに話してくれた下女の笑顔を思い出す。
今ごろは貧しいながらも幸せな日々を送っていることだろう。
静かな足音が近付いてきて、戸の前に月明かりを背にした侍女の影が映った。
「失礼いたします。奥方様、旦那様は今宵も城にお泊りになるだろうとの報せがございました」
「そう。では私も早くに休みます。皆も下がってよいですよ」
告げれば、侍女は丁寧に挨拶をしての前を辞していく。
夫が城に上がったまま戻らず、三日。
若くして家老職につく夫の多忙さは人づてに聞いても相当なものらしい。
忙しいのは真実だろうが、待っている妻がいると思えば気が重くなるのもあるのだろう。
最初から分かっていたことだから嘆くことでもないけれど、やはり疎まれるのは寂しいものだ。
の許嫁は真田弦一郎だった。
物心がついた頃より真田家に嫁ぐのだと言いきかされ、何度か弦一郎にも会った。
なにやら常に厳しい顔をしている男だったが、実直な人柄はにも伝わるものがあった。
弦一郎様の妻になる。
それはにとって決められた道であり運命であった。
『お前は柳殿のもとへ嫁いでもらう』
青天の霹靂とは、まさにこの事か。
驚きに口もきけないに父親は苦々しく続けた。
『真田殿は殿の妹君を賜ることになった。かわりにお前のことは柳殿が娶って下さるとのことだ』
決められた道と運命は、いとも簡単に断ち切られた。
浮いてしまったの存在を柳家が妻として引き取るということで全てが丸くおさまるのだと父に言われた。
にとっての輿入れは、不要な物のように扱われて柳家へ厄介払いされたようなものだった。
そっと引いた戸のむこうに赤く色づく紅葉がある。
葉は一枚、二枚と散っていき、残り僅かの紅葉が月光に照らされて白く輝く。
弱々しくなった虫の声も寂しく感じられ、はもう何度目とも分からない涙を袖で拭う。
彼女の傍に寄り添うのは月の光りだけだった。
「蓮二、よいからお前は帰れ」
何度となく真田が言う。
それに眉ひとつ動かさずに淡々と筆を進める柳がいた。
「殿が寂しがっているだろう。後は俺が」
「あれはできた武家の娘だから分かっているだろう」
「それはそうだろう。だが」
「お前が気に病むことはない。は大丈夫だ」
ふっと微笑んだ柳の表情に、真田は口をつぐむ。
自分の許嫁を押しつけてしまったという負い目が拭いきれない真田なのだが、柳は『大丈夫だ』としか言わない。
許嫁がいながら長年の恋を果たしてしまった真田にとって、
の存在は申し訳ないなどという言葉では済まされない程の後悔なのだ。
『殿は俺が娶ろう』
罪悪感に苛まれる真田に、さらりと告げたのは柳だった。
『だから心配するな、大丈夫だ』
いつもの笑みを浮かべる友を前に真田は絶句し、傍らにいた幸村は扇子で口元を隠すと笑っていた。
大丈夫、大丈夫と言われ、主をはじめ、友にまで助けられて今がある。
愛しい妻と暮らし、真田は幸せすぎるほどの日々を過ごしている。
その幸せを感謝する度に、真田の胸は痛む。
皆が己のように幸せであって欲しい。そう願うのは傲慢であろうか。
黙々と筆を動かす柳の横顔に、真田は小さく息を吐いたのだった。
深夜、障子に映る影が静かに戸を引いた。
灯りを持って足元を照らしてきた侍女が静かに下がっていく。
遠ざかる衣擦れの音を聞きながら足を踏み入れた室には、自分のものとは違う香がほんのりと漂っていた。
柳は室の主を起こさぬように気を配り、そっと褥の頭もとに膝をつく。
流れる黒髪に白い面。
長く黒い睫毛の脇には涙の乾いた跡がある。
触れようとして手を伸ばし、寸前で止めた。
ふっと息を吐き、その寝顔をつくづくと眺めて柳は囁く。
「お前は知らないのだよ。俺がどれほどお前に恋焦がれていたかなど」
吐息で囁き、その唇で目元に触れた。
柳は微笑む。
やっと手に入れた友の許嫁だった姫。
これから時をかけ、手をかけ、身も心も我が手中にする。
そのために済ませなくてはならないことがあるのだが、それもあと少し。
めずらしく弾む心に嘘はつけず、誰の目もないのをいいことに笑みを零す。
柳はの隣に身を横たえ、慈しむように髪を撫でた。
すると肌寒かったのか、眠っているが甘えるように擦り寄ってくる。
それにも笑みが止められず、柳は更に身を寄せて妻の温もりに目を閉じた。
夜が明ける前には再び登城せねばならない。
愛などないと信じている夫の不在など気にも留めていないかもしれないが、今はそれでいい。
そう、今は。
そんなことを考えながら、柳はひとときの眠りに身を委ねた。
お慕いしております 〜柳蓮二編〜
2010/07/13
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