『お慕いしております 〜幸村精市編〜』 完












執務室に慌ただしい足音が響く。
読んでいた書状から顔をあげるのと挨拶もそこそこに戸が引かれたのは同時だった。



「お・・御方様は此方にいらっしゃいませんか」



正室付きの侍女が息を切らせて問うのに、精市は目を丸くする。
真田の眉間に皺が深くなり、傍に控えていた柳は隠しもせず溜息をついた。


空は青いし、風も穏やか。
このお出掛け日和に、おとなしく室に籠っていられるような方ではない。
脱走したのは決定事項だとの口ぶりで、真田は侍女に問う。



「まさか馬で行かれてはおらぬであろうな」



一瞬で青ざめた侍女は、転がるように馬屋へ確認に行った。
続いて立ちあがった真田が「探してまいります」と眉間の皺を三割増で低く言う。
だが、精市は軽く手を振って再び書状に視線を落とした。



「大丈夫だよ。そのうち帰ってくるさ」
「何が大丈夫なのですか。今の御方様は御ひとりの身ではないのですぞ」


「まったくだね。戻ってきたら、柳に説教させよう。あれは堪えるぞ」
「殿、なにを呑気な。幸村家の大事な御子を身籠っておられるのです。蓮二、後を頼む」



いきりたつ真田を手で制し、柳が唇に人差し指をあてた。



「御戻りになられたようだ」



耳をすませば静かな衣擦れの音が近付いてくる。
障子に小柄な影が映ってきたところで、額に青筋をたてた真田が戸を開く。
すると勝手に引かれた戸に驚く、の表情があった。



「真田殿、驚かせないでくださいませ」
「それはこちらの台詞でございます。いったい、どちらへ」



問いつめようとした真田は、が抱く花に目を留めた。



「花菖蒲?」
「はい。気にいった場所がありますので、切原殿に連れて行って貰いました」


「赤也め・・・」



拳を握りしめた真田は、失礼いたしますと足音も高く室を飛び出していく。
後に続いて柳も腰をあげ、先に説教が必要なところに参りますと出ていった。
その後ろ姿を不思議そうに見送ったは、室に視線を戻して「よろしいでしょうか?」と首を傾ける。



「いいよ、入っておいで」



精市の許しを得て、は静々と室に入ってくる。
その腕には見事に開いた花菖蒲があり、精市は自然と笑みを浮かべた。



「綺麗だね」
「はい。殿にお見せしたくて」


「ありがとう。でも、できたら俺を誘って欲しかったな」



差し出された花菖蒲を受け取りながら、ちょっと拗ねた口調の夫には微笑む。



「お忙しいのを存じておりましたので」
「そうだけどさ」


「来年には三人で参りましょうね」



言って、そっと下腹を撫でる姿に渋々と精市は頷いた。



ふたりの間に咲く花菖蒲。
身の内には新たな命も芽吹き、育っている。



人の運命など分からぬものだと、しみじみは思った。
明日のことなど誰にもわからない。


あの日、花菖蒲の前で出会った人の子を身籠ることになるとは。
それも大きな喜びと幸せを持ってだ。


繋いでいく命が精市の生きる意味になればいいと思う。



「お腹が空いた」
「はいはい」



子どものような物言いに笑みを浮かべ、は握り飯を用意するために立ちあがった。


ふと振り返った先には、花菖蒲を眺めて瞳を細める夫の姿がある。



ああ、幸せだと
は花のように微笑んだ。




















お慕いしております 〜幸村精市編〜 完 

2010/06/27



















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