『お慕いしております 〜幸村精市編〜』 玖












「姫様、お待ちください!せめて殿が御戻りになるのを待って」



顔色のないが馬の手綱を引くのを家人たちが必死の形相で止める。
戻れ戻れと娘に繰り返していた父であったが、謹慎を申しつけてあるのに勝手に馬を駆けて帰ったとなれば話は別だ。
しかし姫の決意は固く、家人の願いになど耳を貸さない。



、待て」



通る声が響き、今まさに鞍に手をかけたの動きが止まった。
振り返ると長兄が険しい顔で立っている。
領地の端に出かけていたはずなのだが、一大事と呼ばれて戻ってきたのだろう。
苛立ちと共に疲労の色を浮かべながらも、言葉は静かだ。



「何があった?簡単に意思を変えて戻るような、お前ではあるまい」
「殿・・幸村様がお倒れになったのです」


の声が震えている。



「幸村殿が?」



内容が内容である。さすがの長兄も眉を寄せた。
しかし落ち着いた声色のまま、重ねてに問う。



「それは心配なことだが・・・お前は離縁すると言って戻ってきたのだろう?
 今さら幸村殿がどうなったとて、関わりのないことなのではないか?」


「でも」



そこまで言って、は唇を噛んだ。



「お前が行って幸村殿の病を癒せるわけでもなければ、役に立つわけでもない
 離縁を決意してきたということは、幸村殿に想いがあるわけでもないのだろう?」



想い・・・と兄は言った。
は大きく瞬きをして、視線を足元に落とす。


おや?と兄は、この常とは違う様子の妹を見つめた。



「し、心配なのです。それでなくともあの方は食が細くて・・・ちゃんと召し上がってないかもしれない
 自惚れかもしれませぬが、わたくしの握り飯なら食してくださるに違いない
 そう思うと、じっとしていられないのです」



視線を落したまま、混乱を隠しもせずに話す妹の姿に肩の力が抜けた。
なんだ・・犬も食わぬなんとかだったのかと勝手に納得して、兄は笑みを浮かべる。



「お前の握り飯は美味いからな。そうか、なら良い
 俺の春風に乗っていけ。お前なら喜んで乗せてくれるだろう」


「まことですか!?兄上、ありがとうございます!!」



顔をあげたの表情が一気に明るくなった。
春風という馬は城で一番の足を持つ。
仔馬の頃から兄と共に世話をして可愛がった馬だ。


馬屋の者が春風を連れてくると、馬は嬉しそうにの頬に擦り寄って甘えた。



「いい子ね。お願い、幸村の城まで私を乗せていって」



そう春風に囁くと、は鞍に手をかけ颯爽と馬の背に飛び乗った。



「では、兄上・・・春風をお借りします」
「気をつけてな。それと」


「はい」



手綱を引くの元まで来た兄は、老婆心ながら助言も忘れない。



「素直になれ。でないと後悔するぞ」



瞳を大きくするを見上げ、兄は「行ってこい」と笑顔で春風の尻を叩いた。





春風は駆ける。
見慣れたはずの景色を懐かしむ余裕もなく、はただ流れていく景色に精市の無事を祈る。



何ができるわけではない。そうかもしれない。
けれど・・・じっとなどしていられなかったのだ。
病の状況を知りたい。命に別条はないのか、また治せるのか、どのくらいで治るのか。
顔を見て、傍にいて、あの方が元気になるというのなら何でもしたいと思う。


この突き上げるような想いに逆らうなど、今のにはできないのだ。



「殿、どうぞ御無事で」



呟けば目の奥が熱くなって、は唇を真一文字に結び馬を駆けた。










「御方様、お待ちしておりました。ささ、すぐに殿の元へ」



馬に跨り現れた正室の姿に多くの者が言葉を失くしたのだが、柳と真田は冷静だった。
髪を高い位置に結い、男のような袴姿。その姫が、不安に瞳を揺らして頷く。



「殿の御容態は・・・」
「今は御休みになっております。ですが、思わしくはございません」



視線を伏せた柳の横で、真田も沈痛な表情を見せる。
ひやりと胸の奥が凍る気がして、は痺れた拳を握りしめた。


長い廊下を自分の鼓動を聞きながら進む。



「こちらに」



白い障子の前に案内した柳が、室の前に腰をおろして頭を下げた。
は恐怖に怯えているかのように硬い表情で頷く。


不意に柳の後ろに控えていた真田が顔を上げ、を真っ直ぐに見つめて口を開いた。



「私たちは殿に諦めてなど欲しくはないのです
 お願いでございます。殿の望みを叶えて下さい。叶えられるのは貴女様しかいらっしゃいません」



諦めるとは。それは生きることを諦めるほどに病状が悪いということなのか。


考える間もなく、柳が戸に手をかけて引く。


開かれた戸のむこうに横たわる精市の姿に、の頭は真っ白になった。
震えて折れそうになる膝で前に進めば、後ろで静かに戸が閉まる。



「殿・・・」



枕元ににじり寄り、久方振りに見る端正な顔を覗きこんだ。
精市は白く透き通るような瞼を閉じて眠っている。


の視界が滲んでゆく。
静かな時を刻む精市の儚い命が、ただ切なくて、遣る瀬無かった。



「わたくしが・・・代わってさしあげたい」



この御方にばかり、何故に病はとりつくのか。
誰もが羨むほどの力がありながら、いつも死を身近に感じて生きていらっしゃった。
今を生きることは大切だけれど、先に抱く夢や希望だって生きていくには必要なものだ。


それを抱けない精市の哀しさが胸に迫って、は涙が溢れて止まらない。
ぽたぽたと涙が頬を伝っては零れていった。



「天よ、お願いです。この方を連れていかないで下さい。どうしてもと言うのなら、このを・・」



両手を合わせ、その手に額をつけるようにして呟く。
その時だ。祈るの袖が僅かに引かれた。



「君が連れていかれては俺が困るから・・・駄目だよ」



白く長い指がの袖を掴み、黒く澄んだ瞳がの姿を映している。
うっすらと笑みを浮かべた精市は、さらに手を伸ばして零れ落ちる彼女の涙に触れた。



「その姿・・・懐かしいな」



触れてくる精市の指もそのままに、は自らの袴姿を見下ろして少しだけ笑った。
そういえば花菖蒲を前に初めて会った日も袴姿だった。



「一刻も早くお会いしたくて馬を駆けて参りました」
「俺に・・・会いたいと思ってくれたんだ」



はい、と声にならず頷く。
すると精市は瞳を穏やかに細め、の頬を撫でると囁くように告げた。



「俺も君に会いたかった、とても」



ああ、この方に会いたかったのだと我が想いを知る。
そして自分も会いたかったと応えてくれる人の存在が・・・真に嬉しい。



は一気に膨らむ多くの想いに耐えきれなかった。
童のように泣きじゃくりながら、伸ばされている精市の手に自らの手を重ねる。
そうして、輿入れした時には口にするはずもないと思っていた言葉を告げるのだ。



「あなた様を・・・お慕いしております。だから、お願い。わたしを置いて・・逝かないで」



言葉の終わりも待てずに重なった手を引いた精市。
胸に倒れこんできた温かな体を抱きしめると、恋しかった黒髪に頬を寄せて安堵の息を吐いた。





秋は夕暮れ。
茜色が精市の纏う白の単衣を染め上げている。
それと同じくらいに頬を染め、唇を不機嫌に結んだは目前の二人を睨んでいた。


恐縮しきった真田と判で押したような笑みを浮かべている柳だ。
精市は褥の上。脇息を抱えるようにして笑っている。



「置いていかないでくれっていうから、どこかへ一緒に行きたいのかなぁって思ったよ」
「殿、先程から笑いすぎです。ひどい・・・皆で騙して」


「も、申し訳ございません」



平伏する真田を横目に、俺は騙してないよと病人は明るい。



「俺、知らなかったし。それに具合が悪いのは本当だよ
 なんだか食欲がなくて、医師にも『このままでは病に罹りますよ』と忠告されたんだ
 それを皆が勝手に心配して『寝てろ、寝てろ』っていうから、寝るかなって」



具合が悪いのは嘘ではないのだろうが、精市の枕元には空になった皿がある。
先程まで皿に並んでいた握り飯は、もうすでに精市の腹の中だ。



「でもスゴイよね。の握り飯で一気に食が戻ったんだから」



精市に優しく微笑みかけられ、は拗ねながらもはにかんだ。


そんなふたりの様子を側近たちは穏やかな気持ちで見つめる。
主に託された離縁状を握りつぶし、半分以上は嘘の書状を送りつけた罪は後に問われることだろう。
それでも我が主の幸せに繋がるのならと一計を案じたのだ。



「お叱りは後に受けるとして、私どもは下がりましょう」



笑みをかみ殺しながら柳と真田はふたりに頭を下げ、室を出ていった。



否応なしに訪れた静寂に室内は満たされる。
けれど精市の眼差しは目の前にいる美しい妻に注がれ、の瞳は優しい笑みを浮かべる夫を映している。


室内は暮れていく夕日色で溢れ、ふたりの想いも慈しみに満ちていく。


美しい黒髪だと妻を眺め、ふと大事なことを思い出した。
床から腰を上げた精市は文机に置かれた箱から布にくるまれた櫛を取り出す。



「ほら、後ろを向いて」



花菖蒲が描かれた櫛に気付き、は小さく頷いて背を見せた。
その背に近づき、高く結われた髪の紐をほどくと見事な黒髪が広がる。
触れれば焚き染めた懐かしいの香りがして、今さらながら胸がじんわりと温かくなった。


黒髪にそっと櫛をあて、丁寧に梳いてやる。
その慈しみ溢れる仕草に、はこみ上げる涙を袖でおさえた。



「もう一度・・・」



背中から精市の穏やかな声が紡がれ、は俯いた顔をあげる。



「俺の妻になってくれないかな。今度は一生になっちゃうけど」



今度こそは両手で顔を覆い泣きだした。
精市は愛しい背を後ろから抱きしめて、小さく笑った。



「君って・・・本当は泣き虫だったんだね」



病を得て、どこかで諦めるということに慣れてしまっていた。
いや慣れたくないと思うからこそ、妹と真田の恋を成就させたかったのかもしれない。


諦めながらも、諦めたくない。
そんな日々の中に舞い降りた男装の姫は、精市に楽しくも柔らかな時間をくれた。


君のいる明日が楽しみ。


ささやかな喜びが、どれほどの幸せであったのかを失って知ったのだ。




「俺こそ君を慕っているよ」




精市の告げた言葉は、に此処で生きる意味を与えた。




















お慕いしております 〜幸村精市編〜 玖 

2010/06/27




















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