真田家の嫁 『嫁の教育』
「やみそうにない・・・」
後から後から降ってくる雨の雫に真田家の嫁、は呟いた。
華奢な手が胸に抱きしめるのは夫のために買い求めたもの。
できることなら濡らしたくなかったのにと、は恨めしげに空を見上げた。
昨日のことだ。
新聞を読んでいた真田が、ふと口にした話題がを動かした。
『今年も花火大会を見に行くか』
『え?』
真田は新聞をおろし、穏やかな眼差しを妻に向ける。
『あの日のことを思い出してな』
低く柔らかな夫の声に、が頬を染める。
いつまでたっても慣れはしない。聞き惚れるほどに素敵な夫の声だ。
は自分の頬が赤いだろうことを恥ずかしがりながらも、愛しい夫に微笑み返す。
『楽しみです』
花火大会で求婚された。
真っ直ぐな瞳で力強く告げられた言葉は、の一生の宝物だ。
『大輪の花火のもとで見る、お前の浴衣姿も見たいしな』
楽しそうに続けられた言葉。
一瞬で火がついたような頬をおさえたに、真田は笑って再び新聞を広げた。
もう、からかって。
熱かった頬が更に熱くなってしまって、どうしようもない。
優しい夫なのだが、時々こうやって自分を困らせる。
でも、満更ではないのだ。
浴衣を出しておかなくてはと思い、ふと・・・夫の分はと考えた。
そうだ、旦那様の浴衣を新調しよう。
は自分の思いつきに頬を緩め、夫には何色が合うだろうと胸を躍らせた。
そしては雨に降られる羽目になったのだ。
梅雨の晴れ間なのだから、傘は持ってきて当たり前だったのだ。
なのに夫に似合う浴衣のことばかりを考えていたから、うっかり傘を忘れてしまった。
教育委員会の研修に出かけた真田は、いつもより早く帰ってくるはずだった。
夕食の準備を急がなくては。
は意を決して雨の中に飛び出そうとした。
その時だ。後ろから透明のビニール傘が差しかけられた。
「傘をどうぞ、美しい人」
振り返ると真田とは正反対の髪色をした男が微笑んでいた。
「あ・・あの?」
「イマドキめずらしい和服美人を雨に濡らすわけにはいかんじゃろ」
彼を知る者が見たら胡散臭いとしか言いようのない笑みなのだが、
ファッション雑誌から飛び出てきたような派手な男には目を丸くする。
「家まで送ろうかの」
「そ、そんな見ず知らずの方に申し訳ないですし」
「お嬢さんの家はアッチじゃろ?」
家とは違う方向を指さす彼に、素直なは首を振る。
いいえ、私の自宅は反対で・・・と。
その答えにシテヤッタリと笑みを浮かべる男。
「それなら俺と一緒じゃ。袖すり合うも多生の縁。遠慮はいらん」
男は爽やかな笑みで長く綺麗な指を振った。
しつこいようだが彼を知る者が見ていたなら『早く逃げろ』とに忠告しただろう。
だが危機意識の薄いは、それはそれはご親切にと頭を下げた。
自分好みの和服美人じゃ♪
ここからが腕の見せ所と仁王は心の中で策を練る。
簡単についてきたところから見て、落とすのは割と簡単かもしれない。
そんなことを思いながら、隣を歩く美しい人を見下ろす。
色白の頬に落ちる黒くて長い睫毛の影が色っぽい。
年齢は自分に近いようだが、和服のせいか落ち着いて見える。
もしかしてと、女ったらしの勘がはたらく(その勘を別に使えと親友には言われている)。
「ひょっとして、お嬢さんじゃのうて奥さんか?」
仁王の問いかけに、着物の裾を気にしていたが嬉しそうに顔をあげた。
「そう見えますか?」
「可愛らしい新妻に見えたもんで、ついな」
抱えた紙袋で口元を隠し、は肩をすくめるようにして仁王を見上げる。
その仕草が本当に初々しく、仁王は目を細めた。
「嬉しい、ちゃんと奥さんに見えるんですね。旦那様に自慢しなくては」
「旦那様?おいおい。旦那を様づけか?」
「ハイ。だって・・・私は旦那様を尊敬していますから」
「尊敬ねぇ。年の離れた旦那か」
それならそれで奪いやすい。
瞬時に思考をめぐらせた仁王に彼女は首を振る。
なんと、彼女の夫は仁王と同い年だという。
俺の歳で妻に尊敬され、旦那様と呼ばれる男とは何者じゃ?
ちょっと待て。どこかで聞いたことがあるような・・・
「旦那様はとても優しいのですよ」
「ほぅ」
「いつも私に『ありがとう』と言ってくれるんです」
「ありがとう?」
「ええ。お茶を差し上げたり、新聞を渡したり、そんな些細なことにも言ってくれるのです
料理も残さず食べて下さって・・・最後には『美味かった。ありがとう』と。優しいでしょう?」
それが優しいのか?優しいのか。
とろけそうなほど幸せそうに語る美しい人を見ていると、そうなのかと思う。
「寒い朝には私の手が冷えていると言って、温かい息を吹きかけてくれるし
雷が鳴る時には、私が怖くないように耳を塞いでくれて」
うんうんと訊いていたら、彼女が段々と惚気はじめた。
ちょいと好みの女性をナンパした気でいた仁王はアテが外れ、
甘ったるい新婚家庭の旦那様自慢を延々と聞かされる羽目に陥ってしまった。
「この前は高いところの物に手が届かず困っていたら、後ろから抱きあげて下さって」
そんなもの、自分が取ってやればすむ話。
たんに嫁に触れたいだけのスケベ根性ではないか。
いささかウンザリしていると美しい人妻が足を止めて頭を下げた。
「ご親切にありがとうございました。おかげで大切な品を濡らさずにすみました」
「その大事に抱えたものか」
「ええ。浴衣の反物なので濡らしたくなかったのです」
愛しそうに抱えた紙袋。
それが誰のものなのか、聞かずとも分かる気がする。
これはどうも骨折り損のくたびれもうけだったようだと溜息が出た。
「家はここか?」
「はい。そこで・・・」
そう言ってが指差した日本家屋に、何故か見覚えがある気がした仁王。
重厚な木の表札に書かれた名前を確認して、回れ右をしたくなった。
「じ、じゃあ、俺はここで」
「そんな。どうぞ上がってお茶でも」
「い、いや。それはちょっと」
なんと無防備な。
いつもなら『イタダキマス』の仁王も、今回だけは不味い。
この人妻を食った日には、消化不良どころか確実に殺される。
「でしたら、せめて濡れた肩だけでも拭いて」
「いや、それもちょっと」
半分、体が逃げかかった時だ。
頭上でゴロゴロと不穏な音が鳴り、次には稲光が空を走った。
小さな悲鳴をあげたが、思わずというふうに耳を塞いで身を縮こませる。
狭い傘の中だ。
抱きつかれたわけではないが、人妻の細い肩と色っぽいうなじが目の前にさらされてクラッとした。
習性とは恐ろしいもので、考えるより先に伸びる仁王の手。
美しい人の肩を抱き寄せようとした途端、稲光を追うように雷の音がした。
不可抗力じゃ、俺は悪くない。
悲鳴をのみこむ彼女の肩を抱き寄せようと伸ばした手が空を掴んだ。
ビニール傘にぶつかったのは紺色の傘。
傘の先からは溜まった雨水が滝のように流れ、その先には燃えるような目をした真田が仁王を睨んでいた。
「弦一郎様」
背中から抱きしめられたは、後ろを振り返って半泣きの笑顔を浮かべる。
また稲光が走った。雨も激しくなる。
胸に飛び込んできた妻を抱きしめ耳を塞いでやる真田を前に、仁王は今度こそ回れ右をした。
ヒロに遺言を残しておくべきじゃった。
そんなことを思いつつ、仁王は激不機嫌な真田の前に座っている。
家の主人が淹れてくれた緑茶は恐ろしいほど苦い。
抹茶かと思ってしまうほど緑色なのは、きっと真田の嫌がらせなのだろう。
「で?なにをしにきたんだ」
「何も。真田の大事な嫁さんが風邪をひかんように」
お愛想笑いで言ってみたが、真田の眼力に言葉をなくす。
昔から騙せなかった四人がいる。
パートナーの柳生。
笑顔でウソを見抜く幸村。
性質の悪い観察力を持つ柳。
そして、無口なのだが大事なことを見逃さない真田だ。
「あ〜、好みの美人さんが困っちょったら声をかけただけじゃ
そんなに心配なら、知らない人間にはついていかんよう言い聞かせるんじゃな」
真田は目に見えて肩を落とし深い溜息をつく。
ふわふわとした無防備な嫁に気苦労が絶えないのだろう。
「しかし、あれだけ旦那様自慢と惚気話を聞かされたら萎えるがな」
よく考えれば、長々と聞かされた甘っちょろい旦那は真田だったのだ。
これはちょっとウケル。
つい笑ってしまったら、刺すような視線が向けられた。
すくっと真田が立ち上がる。
そして威圧感と共に仁王を見下ろすと、唇の端をつり上げて笑った。
「が夕飯を御馳走するそうだ
それまでの間、暇だからな。久しぶりに剣道の相手でもしてもらおうか」
え?それは死ぬかもな。
笑顔が凍ったペテン師だった。
食が細く、何故か微妙に体の節々が痛そうな仁王は早々に帰っていった。
雷は一時的なもので、雨も上がっている。
さすが旦那様のお友達は親切な方ばかりですと微笑んで見送る妻に、真田はこめかみを押さえた。
「、いかのおすしを知っているか?」
「イカのお寿司ですか?好きですよ」
「違う。いかない、のらない、大きな声で叫ぶ、すぐ逃げる、しらせるだ」
「なんですか、それ」
「だから」
「あ、弦一郎様!星が」
が着物の袂を押さえ、白い指を空にさした。
「明日はお天気だといいですね。ね、弦一郎様」
夜目にも輝く妻の瞳は宝石のようだ。
喉まで出かかっている説教より、まずはその瞳が欲しいと思う。
雨上がりの夜空のもと、慈しむように触れた頬にが瞳を瞬かせた。
「弦一郎様?」
「俺以外の男と並んで歩いてほしくない。そう思うのは、俺の我儘か?」
真田の言葉を反復して、はゆっくりと首を横に振った。
頬に添えられた大きな手に擦り寄って、目を閉じる。
「ごめんなさい・・・」
は思い出していた。
高校生の頃、女子に囲まれる真田をテニスの試合会場で見た時の胸の痛み。
今だって夫の隣には自分以外の誰も並んで欲しくないと思うから。
「もう誰にもついていきません」
小さな囁きに、真田は優しく妻を抱き寄せた。
同じ頃、柳生の携帯に仁王からメールが届いていた。
『バッサリ切られて瀕死じゃ。ヒロ、助けてくれ〜』
だから言ったのに。
柳生は溜息をつくと容赦なくメールを消去した。
真田家の嫁 『嫁の教育』
2009/07/02
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