「真田先生、外来からお電話です。検査の準備が出来たそうです。」
「ん、分かった。」



ナースステーションの窓から階下を見下ろしていた真田が白衣を翻して出て行く。
ナースは真田がずっと見ていたものが気になって、先ほどまで彼が立っていた場所に立ち窓の外を見下ろした。



「あら、紫陽花・・・」



梅雨の霧雨が降る中、鮮やかな青の紫陽花が揺れていた。










     さよならから始めよう 〜真田編〜 1










当直明けだった真田は、医長の配慮で夕方には開放された。
久々の梅雨は、日本に帰ってきたんだと自覚させるには充分だ。


職員の通用口から外に出て、薄暗い空を見上げて溜息が出た。


駐車場に向かおうとして、ふと病棟から見下ろしていた紫陽花が目に入った。
その紫陽花の傍に・・・一人の女性が立っていた。



思わず真田の足が止まる。



水色の傘をさした、その人は・・・透けるような白い肌と色素の薄い長い髪をしていた。
細く華奢な体は酷く頼りなくて、雨に煙る景色の中に溶けて消えてしまいそうなほど儚い立ち姿だった。
彼女には表情がなく、ただ紫陽花を見ている。



真田は動けずに、その人を見ていた。
一瞬・・・過去に深く愛した人を思い出した。
今は、自分ではない別の男と幸せに暮らしている人。



彼女が辛い恋をしている時・・・あんな姿で自分の前に立っていたのを思い出す。



真田は足を踏み出していた。
もちろん彼女に声をかけるつもりなどない。
その紫陽花の脇を通らなければ駐車場に抜けられないだけだ。



一歩一歩、彼女に近付いていく。
ピシャ、と。水溜りに靴音がした。



その人が振り向いた。髪と同じ、色素の薄い瞳をしていた。
水色の傘のせいか、白い顔が青ざめて見える。



が、ふわっと。
その人は微笑んで軽く会釈した。



真田も軽く頭を下げて通り過ぎる。



わずか数秒の出来事だ。
真田は自分の意思で振り向かなかった。
本当は振り向きたかった。



あの・・・花のように微笑んだ人を。



本当はもう一度、見たかったのだ。





それからの真田は、無意識に紫陽花を見下ろしている自分に気づく。



「先生、紫陽花がお好きなんですねぇ。」とスタッフに声をかけられて我に返る。
「いや」と答えて。



本当は、あの日に見た『彼女』の姿を探しているのだと頭の中に言葉が掠めていった。





どうかしている。
たった一度、すれ違っただけの人。



あれに、似ているから。
自分の半生をかけて愛していた幼馴染に面影が似ているからか?
なんと女々しいことだろう。



自分で分析して苦笑する。



忘れたいことを忘れる・・・ということは難しいものだな。



そう呟いて、真田は目を閉じた。





だが、出会いは。いとも簡単に訪れた。



一階の売店に手軽に食べられる昼食を買いに降りた真田は、店の前で花かごを並べている女性に目を奪われた。
彼女は薄茶の髪を後ろでひとつに束ねてエプロンをしている。



茫然と立ち尽くしていると、彼女が視線をあげた。
あ、という顔をして。次には、にっこりと微笑んだ。



「すみません、邪魔でしたか?」



優しい、柔らかな声だった。言いながら、花かごを乗せた台車をどけてくれる。



「あ、いや。すまない。大丈夫だ。」



真田の答えに、彼女はまた微笑んだ。



彼女が並べている花台の奥に、パンやらオニギリが売られている。
仕方なく彼女の脇を通って奥に進んだ。
狭い通路に彼女が体を避けてはくれたが、少しだけ白衣に女性の肘が掠る。



その時、かすかに花のような甘い香りがした。



ぐら・・と足元が揺らぐ感覚に手を握り締め、真田は冷静を装って食べ物を選んだ。



「優花ちゃん、これ・・・伝票ね。」
「はい、ありがとうございます。」


「どう?結果は?」
「うん、大丈夫だと思う。」


「今年で五年だもんね。」
「うん、心配してくれてありがとうね」



売店のレジにいる職員と話をして、彼女は伝票を受け取ると台車を手に歩き出した。
そばを通る彼女と目が合った。


ゆうか・・・と呼ばれた女性は、また軽く会釈して真田から離れていった。



その後姿を見るともなしに見送った真田は、
台車に書かれた『SAKURA フローリスト』という文字を追っていた。



病院の斜め前にある花屋か。



彼女がそこの店員なのは間違いない。
この売店の職員とも親しいようだから、長いのだろう。



花つながりとは・・・皮肉だな。



気になっていた女性が、忘れられない人と同じ花に携わる仕事をしていた。



それだけで気持ちにはブレーキが、かかっていった。





だが、知ってしまうと、よく会うものだ。
そうそう売店に顔を出しているわけでもないのだが、昼頃いくと彼女に会う。
注文に応じて病室に花を運ぶのだろう、たまには病棟で花を抱えて歩く彼女を見かけた。


今まで会わなかったのが不思議なほど、彼女の姿を見かけた。





よく笑う。





いつ見ても彼女は微笑んでいた。


ナースステーションに寄ってから病室に花を運ぶ彼女は、スタッフたちとも顔見知りらしい。
二言、三言と言葉を交わして、ニコニコと微笑む。
医師とも顔見知りらしく、売店で内科の医師と挨拶している姿も見た。


人と接していない時も、花に向けて微笑んでいる。
慈しむように売り物の花かごを並べる彼女の横顔を見た。


見惚れるほどに・・・優しい笑顔だった。





何故だろう。
彼女の笑顔を見ると、あの雨の日に紫陽花の前に佇んでいた儚い彼女とは違和感を感じる。
あの消えてしまいそうな儚さは、雨が見せた幻だったのだろうか?





彼女と出会って3週間も過ぎた頃。
電気の落ちた総合受付に外来カルテを見に降りた真田。
時計は夜の9時をまわっていた。


消灯がすんだ外来には面会客もおらず閑散としている。
総合受付と薬局だけが救急患者受け入れのための明かりを灯していた。


広い待合室を通る時、パチンと音がした。
何の音かと怪しんで見渡せば、玄関に入ってすぐの案内所に立つ彼女がいた。


彼女は人気のない待合室で、案内所に飾るための花をいけていた。



真剣な眼差し。
銀色のハサミを片手に花をさしていく彼女の横顔は凛としていた。



また失くした恋が胸をよぎる。
そう、彼女もこうやって花をいけていた。



しなやかな揺れるオレンジの小花をさした後、彼女はふう・・と息を吐いた。
そして何気なく視線を真田に向けて驚いた顔をした。



「あ・・・こんばんは。」
「ああ、こんばんは。」



24時間動き続けている病院で『こんばんは』は違う気もしたが挨拶を交わす。
何度か会ううちに彼女も真田のことを覚えていたようだった。



「こんな遅くに花を?」
「ええ。週に二日、消灯後に来ています。」


「そうか。」



会話が続かない。
酷く居心地が悪い気持ちになって、
真田は手にしていた買ったばかりの缶コーヒーを彼女に差し出すと「これを」とぶっきらぼうに言った。



『そんな言い方をするから怖がられるのよ』と幼馴染に注意されたことを思い出す。



なのに彼女は、柔らかく微笑んだ。



「いいんですか?」と怖がりもせずに、素直に聞いてきた。



真田が頷いてみせると、彼女は「ありがとうございます」と手を差し出してくる。
暗い待合室に僅かな明かり、その中に伸びてきたあまりに白くて細い指。



彼女の細い指が、缶を持つ真田の手に触れた。



その瞬間。指先に電気が走ったかのような感覚に襲われる。



思わず引いた手に、缶コーヒーは音を立てて落ちてしまった。



「きゃっ、ごめんなさい」
「いや、」



二人は同時にしゃがみ込み、落ちた缶に手を伸ばす。





あとで真田は思う。


あの時、自分はどうかしていた。


けれど、もう一度。


あの日、あの時をやり直したとしても・・・自分は同じ事をしてしまう。


そう、思う。





真田は目の前に伸びてきた細く白い腕を掴んでいた。
缶コーヒーを掴もうとしていた彼女の手は、あっけなく自分の引き寄せる方に引っ張られ。
同時に彼女の体も、膝をついた自分の胸の中に落ちてきた。



真田は彼女の体を衝動的に抱きしめてしまっていた。
闇にまぎれて抱きしめた彼女の体からは、やっぱり甘い花の香りがして胸が締め付けられる。



一度、強く力を込めて抱き。
そっと腕の力を緩めて彼女の瞳を覗きこんだ。



水の膜を張った瞳に、僅かな非常灯の明かりが反射して輝いている。



その瞳があまりに美しかったから。



彼女の唇が、かすかに震えて開いていたから。





真田は美しい人の唇を塞いだ。




















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