さよならから始めよう 最終章










年代物のアパートの階段を上がりながら、は抱えた紙袋を持ち直した。
やっと見慣れてきた自宅、帰ってくるとホッと力が抜ける。


楽しいけれど気を張っている毎日。
大学時代、アメリカに留学した経験もあったが、クィーンズ・イングリッシュは難しい。


それでもの人柄か、周囲の人間は優しく彼女を受け入れてくれた。
まだまだ不安や戸惑いはあるけれど、自分ひとりで頑張るんだ・・・という
強い意志が揺らぐことはなかった。



、俺と共に生きてくれ。俺が、お前を守ろう』



時に、真田の顔が、声が浮かんだ。
本当に優しい人だと思う。


だが、は真田の手をとらなかった。
彼を好きだとは思うが、愛してはいなかったから。


そして・・・これから先も、絶対に愛せるとは約束できなかった。


不確定な想いで真田を縛ることは出来ない。
真田は「それでもいい」と言った。でも、が許せなかった。



心のうちにある景吾への想いは・・・別れても消えないのだ。



愛している、と。無意識に、心の中で幻に告げてしまうほど。



こんなにも激しい思いを抱えたまま真田の傍にいられるはずがない。



『弦一郎、私の心の中には・・・まだ、彼がいるわ。
 この想いが消えてしまうまで、もう恋はしない。そして、誰にも頼らない。』


『もし、もし消えることがなかったら?』


『大事にするわ。だって、私の心だもの。大事に抱えて生きていきます。

 弦一郎、ありがとう。あなたがいてくれたから・・・決心できたの。
 そして、ごめんなさい。あなたが大切な人だからこそ、これ以上は甘えられない。』



真田は大きな溜息をつくと、ゆっくりと広い胸に抱きしめてくれた。
包むように、ふんわりと抱きしめて。



『お前は・・・やはり飛んでいく鳥だな。』
『なに?』


『いや。俺のことは気にするな。お前は、思うように生きればいい。
 遠くから・・・見守るぐらいは許してくれるだろう?』


『ありがとう・・・弦一郎』



しばらく二人は抱き合って・・・そして別々の場所へと旅立つことに決めた。





カツカツと靴の音が響く。廊下の角を曲がれば自分の部屋だ。
紙袋を抱えたままカバンから鍵を取り出そうとしたら、手が滑って紙袋が落ちてしまった。



「あ、やっちゃった」



思わず日本語で呟き、しゃがみ込んで散らばった品物を拾う。
その時、廊下の角から黒い靴が見えた。
靴の先に転がったリンゴを綺麗な長い指が拾ってくれるのが視界に入る。



ありがとう・・・と言いたくて、口を開いて視線をあげた。



「ほら、よ。」



目の前に差し出される赤いリンゴ。だが、もうそんなものはの目に映っていない。
彼女の瞳に映るのは・・・たった一人の男だけだ。



目を大きく見開いたまま言葉も出ない
景吾はの前に散らばった品物を拾うと、彼女の前にしゃがみ込んで無造作にそれを紙袋へ放り込む。


しゃがみこんで視線を合わせてきた景吾は、じっとの顔を見てから小さく笑った。



「少し・・・痩せたな。もともと細いんだから、ちゃんと食えよ。」



その白い頬に触れたくて手を伸ばすと、がハッとして後ろに身を引く。
景吾は僅かに困ったような顔をしたが笑顔のまま立ち上がると「ほら、立てよ」と手を差し出した。


だが、それにもは従わず自分の足で立ち上がった。


景吾は苦笑する。



「どうして、ここに?何のために来たんだ?って、顔をしているが・・・あってるか?」
「・・・はい。」



は冷静に答えたつもりだったけれど、声は掠れて震えていた。
自分の手も震えている。抱えた紙袋が小さく音を立てているのが聞こえていた。



「理由は、ひとつ。お前に会いたかった。」



イヤ、そんな言葉、聞きたくない!心を乱さないで!


は顔を背けた。このまま荷物を放り出して耳を塞ぎたい。



「俺は、お前が欲しくて、力づくで手に入れた。
 手には入れたが。お前の心は・・・手に入らなかった。

 欲しかった。何より・・・お前の心が欲しかった。

 間違ってたんだな。俺は、やり方を間違えちまってた。」



顔を背けて苦しそうに目を閉じてしまった。それでも景吾は続けた。



この声が、お前に聞こえているなら。
俺の想いが届くまで。



「最初に約束した事、覚えているか?お前は『優しくして欲しい』と言った。

 だが・・・俺は優しくしてやれなかった。

 優しくすること。愛するということ。
 全部、お前と会って初めて知った言葉だったからだ。

 、分かるか?
 お前は、俺が初めて・・・心まで欲しいと願った女だ。

 愛していると、愛されたいと。
 コントロールできないほどに、強く願った・・・初めての女だ!」



伏せた震える睫毛の下から、涙が頬に滑り落ちていく。
塞ぎたい耳から入ってくる人の声は、あまりにも真っ直ぐで。
心までもが震えて止まらない。



くっと唇をかみ締めて、声が漏れてしまいそうなのを堪えたら、
目元に触れた指が涙を拭ってくれた。



は耐え切れず、泣きながら首を横に振る。
涙をポロポロ零しながら景吾を見返した。



「私・・・弦一郎にも、保奈美さんにも、酷い・・・事を、」


「真田には、俺が幸せにすると約束してきた。この場所を教えてくれたのも真田だ。
 保奈美は俺から卒業したってよ。お前がイギリスに行くから追えと背中を押したのはアイツだ。」


「でも・・・私・・・怖くて。あなたの傍にいたら・・・不安で。好きなのに・・・辛い、」


「ああ。だから、やり方を間違ったと言ったんだ。」


「・・・間違った?」



の頬を両手で包み、涙を拭ってやりながら微笑む景吾の瞳は穏やかだった。
まるで幼い子供のように泣きながら自分を見上げてくるが愛しくてたまらない。



「間違ったら、始めからやり直せばいいと思わないか?」
「やり・・・直す?」


「始めからだ。
 ちゃんとお互いの想いを告げて・・・心の内をさらしながら距離を縮めていく。お前と恋をやり直す。」


「恋・・・を、」


「想いのままに優しくする。愛して、愛されたい。」


「愛して・・・愛される・・・」




。俺たちは一度終わった。だから・・・さよならから始めよう。」





 さよならから・・・始める





ただ、見つめ合って。


景吾の優しい瞳に、こだわりも迷いも・・・不安さえ溶けていく。



「一年後に・・・帰ります。
 その時、始めてもいい・・・ですか?」



ククッと景吾が笑った。


気の長い話だが・・・お前は頑固なんだってな。
真田がぼやいてたぜ?


いいさ。一年後だ。
だが、。ただで、一年は待てねぇな。



今、キスして・・・いいか?










仕事を終えて車を走らせる。
今日は特別だから、いつもより早くに会社を出た。


出る間際まで秘書が書類を持って追いかけてきたから機嫌が悪い。
それでも家が近付いてきたら気分が晴れてきた。


子供みたいに胸がわくわくするのが止められないで
自分でも呆れながら急いでいる。



自動で門が開いていく時間さえ、もどかしく思える自分は重症だ。



車を玄関前につけたら、すでに渡邊が頭を下げて待っていた。



「お帰りなさいませ。」


「来てるか?」


「お待ちでございます。」



渡邊が先に立って玄関を開ける。
一番最初に目に入ったのは、零れるように咲くアプリコット色のローズ。


上品な薔薇の香りが周囲を満たす。


景吾は指先でローズの花びらに軽く触れると微笑んで、
次には待ち人がいる奥の部屋へと向かった。


初めて訪ねてきた時にが立っていた部屋。
庭に面した大きなガラス窓の前に彼女は立っていた。


今はもう、日が暮れて。
ライトアップされた庭は、昼間とは違った姿を見せている。


景吾は黙って、庭を見つめるの隣に並ぶ。
気配に気づいたが顔をあげると、景吾は優しく囁いた。



「庭が気に入ったか?」



は気がついた。
あの日、庭を見つめていた自分に景吾がかけてきた言葉だと。



「・・・はい。お手入れが行き届いていて、庭を管理されている方の愛情を感じました。」


「そうか。俺も、ここから見る庭は気に入っている。」



そっくりそのまま、あの日と同じ会話をして。
視線を合わせて二人は笑う。



あの日、景吾に強引な口づけされた。それが、終わった恋の始まりだった。



「帰国するなり・・・仕事をしてくれたんだな。」


「仕事じゃありません。あなたに・・・贈り物です。」


「ん?」


「もうすぐ・・・お誕生日でしょ?」


「覚えてたのか?」



はにかんだように微笑んで、
長い髪を耳にかけたの左手には、いつか投げつけたダイヤモンドの指輪が輝いていた。



、」
「はい」


「始めようか」
「・・・はい」



傍らのを見れば、瞳を揺らしながらも微笑んでいる。



「愛してる」



がふんわりと微笑んだ。


さっき見たローズのように柔らかで、美しい笑顔。





お前の笑顔が絶えないように。


いつも、俺の傍にあるように。




言葉も想いも、たくさんやろう。


たくさん優しくしてやろう。




お互いが、優しく優しく愛し合おう。





すべては・・・今、始まったばかりだ。





















「さよならから始めよう」  

2005.07.11




















戻る     テニプリ連載TOPへ