廊下を歩いていたら前から長めの黒髪が見えてきた。
昼休みの廊下はお喋りしたり、次の授業に移動する生徒で溢れている。


それでも、直感が教えてくれる。
あれは、きっと彼。


段々と近づくにつれ姿が現れる。
予想通りの人物も私に気づいたみたい。
教科書とペンケースを手に、ジッと前を見つめながら近づいてくる。



3メートル、2メートル、1メートル。
彼が右手に持っていた教科書を左手に持ち変えた。
私は両手に抱くようにして持っていたピアノの楽譜を左手に持ち直す。


フリーになった右手。
忍足クンが私の横を無言で通り過ぎる。
その瞬間、彼の指先が私の手を撫でるようにして過ぎていった。


密やかな触れ合いは誰に知られる事もなく彼は遠ざかって行く。
もちろん私も振り向かない。
ただ彼に触れられた手首だけが熱く脈打っていた。








ずっと傍にいて(前) 〜忍足編〜








、今晩は少し遅れるかもしれねぇ。場合によっては間に合わないかもな。その時は、」
「分かってます。迎えの車に乗って帰りますから心配しないで。」


「なら、いい。どっちにしてもメールする。」
「分かりました。」



景吾さんは、いつも忙しそう。
その合間を縫ってオペラやクラシックコンサートに連れていってくれる。
彼なりの気遣いなのだと知りながらも、ここ最近はそれが辛くてたまらない。



私は恋をしている。
でも相手は婚約者である景吾さんじゃない。


景吾さんとは小さな頃からの付き合い。
私が物心ついた頃には跡部家へ嫁ぐのだと言われて育った。
それが当然なのだと思って育ってきたけれど、今の時代には考えられないような約束事なのだと知ったのは数年前だ。


景吾さんと、さん付けで呼ぶのも。
景吾さんには敬語を使うのも。
景吾さんより前には絶対出ないのも。
ピアノに語学、茶道、華道、習い事は全部、跡部家に相応しい人間になるための教養。
小さい頃から全てを彼に嫁ぐためだけに費やしてきた。



そんな私が恋をしてしまった。
それも・・・景吾さんのお友達に。



『あれ、さんやったっけ。なんや、ひとり?珍しいな。』
『あ・・・あの、』


『俺、忍足。忍足侑士や。跡部と同じテニス部の。』
『あ・・こんにちは。こんなところで誰かにお会いするとは思わなかったので驚いてしまって。』


『それは俺も。昔の映画、好きなん?』



そこはリバイバル専門の名画座という小さくて古い映画館だった。
家の者が知ったら直ぐに立ち入り禁止にされそうな所だったけれど、私にとっては唯一の息抜きが出来る場所だった。


だから景吾さんも知らない。
そこに忍足君が偶然現れた、それが最初。


顔と名前ぐらいは知っていた。
景吾さんと同じテニス部に籍をおき、彼に負けないほどの人気を誇っている人だったから。


その日、忍足君に誘われ隣り合った席で映画を見た。
景吾さん以外の男の人と隣り合って座ることなどなかったから、酷く緊張したのを覚えている。
一言も言葉を交わさず映画を見終わり、別れの挨拶をしようと立ち上がった私に彼が言った。



『お茶でもしながら、今見た映画の話でもしょうか?』



初めて景吾さん以外の男の人に誘われて、
なんて断わればいいのかも分からないうちに連れて行かれたファーストフード店。
こんな店に入ったのは初めてだと告げれば、忍足君が酷く驚いたものだ。


彼の話は面白かった。
関西弁は怖いというイメージを持っていたのに、彼の話す言葉は柔らかくて怖いどころか気持ちが落ち着いた。
はじめは緊張していた私も大好きな映画の話になったら黙っていられずにお喋りになってしまった。
気づけば外が夕焼けでオレンジに染まるまで話しこんでいた私たち。



『嬉しいな。こんなに映画について語り合える人間が傍にいたとは。』
『私も。すごく楽しかった。』


『また今度、一緒に見にいこか?
 一人で見るよりは絶対に楽しいし。連絡するから携帯の番号、教えて?』



あの時、なんで頷いてしまったんだろう。
あまりに楽しくて、咄嗟に『行きたい』と思ってしまった。


帰りが遅くなったことで母に叱られた。
図書館で本を読んでいたら夢中になってしまったと嘘をついた。
そして携帯に登録された忍足君の名前を見ると、何故か胸がドキドキした夜だった。



それからだ。時々、忍足君に誘われては映画を見に行くようになった。
彼が映画を見に行くのはテニス部がお休みの日か試験期間中。
景吾さんがお休みの日は、当然忍足君もお休みになる。
多忙な景吾さんが昼間に私を誘うことなどないから、日中は忍足君に会える。
それがいつの間にか、とても楽しみになっていた。



あの頃はまだ忍足君と廊下で擦れ違えば会釈もするし、少し立ち話をすることもあった。


変化があったのは、あの日。
共に映画を見る約束も四度目となっていた。
明日は忍足君との約束があるという日、帰宅したばかりの私に景吾さんから電話があった。



、すまないが花束を選んできてくれ。ついでに家に寄って俺のスーツ一式も頼む。
 こっちから電話しておくから、お前は全部を持って学校に来い。いいな?』



聞けば、お父様の仕事関係のパーティーに急遽代役で出席しなくてはならなくなった景吾さん。
家に帰って身づくろいする時間が惜しいと私に電話がかかってきたのだ。


慌てて跡部家に向かえば、既にスーツなど一式が準備されていた。
それを持ち、今度は跡部家の車に乗り換えて花屋へ向かう。
私のセンスでいいからと景吾さんに言われたのをプレッシャーに感じつつ、彼好みの華やかな花束を作ってもらった。
車を降りて景吾さんに電話したら『部室に持って来い』と電話を切られた。


困惑した。別に、やましい事はない。
ただ忍足君がいるかもしれない。それが私の心を迷わせた。


けれど景吾さんの命令は絶対だ。
ふさぐ様な気持ちで私は部室に向かい、躊躇いながらノックする。


その部室のドアを中から開けてくれたのは忍足君だった。
瞳を大きくして私の名前を口にしようとした彼より先に名前を呼んだのは別の人。



、すまなかったな。』
『いいえ』



抱えたスーツや靴の入っているだろう袋を景吾さんに渡す。
景吾さんの脇に避けた忍足君は眉をひそめてジッと私を見ていた。



『花束は?』
『車の中にあります。』


『そうか。俺が着替えるのを待ってろ。会場に行くついでにお前を送る。』
『・・・大丈夫です。ここからバスで帰れます。』


『馬鹿言うな。お前に何かあってからじゃ遅い。ここで待ってろ。』



私の返事も待たずに景吾さんは奥に引っ込み、入り口に立つ私と忍足君だけが残った。
少しの沈黙の後、忍足君が囁くような声で訊ねてきた。


『ずっと気になってたんやけど。と跡部って・・・なに?』
『私は・・・』



     景吾さんの婚約者なの。



声が震えていた。
忍足君の顔が見られなくて、理由も分からず喉の奥が熱くなって涙が込み上げてきた。



『そうか』と、一言。



それだけを残して忍足君は部室の奥へと消えていき、私の目の前で重い扉が閉じていった。




















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