めぐり会えたら
その日は朝から静かな雨が降っていた。
音さえしない。柔らかなミストが体を包むような感覚をおこさせる温かみのある雨。
スクランブル交差点で、ぼんやりと向かい側に立つ人々の姿を見ている。
知っている人がいるわけもない。
平日にオフを取った私は、どこか異国に紛れ込んだ異邦人のような気持ちで信号が変わるのを待っていた。
なんだか雨の日は泣きたくなってくる。
今更だとは思うけれど、雨の日に一人でいるのは好きでもあり・・・苦手だ。
切なくて、苦しくて。だけど、ほんの少し甘さを含んで胸に迫ってくる。
心の隅。十代の私が今も雨空を見上げているのだ。
急に後ろからスーツ姿の男性が隣に割り込んできた。
一分でも早く信号を渡りたいのだろうが、男性の傘が私にぶつかる。
ぼんやりとしていた私は、咄嗟に避けようとしたものの避けきれず一、二歩よろけてしまった。
鈍い音がして振り向けば、私の傘が斜め後ろの人に当たっていた。
「すみません!」と、謝ったと同時に信号が変わり一斉に人が移動し始める。
でも、私は動けなかった。相手も動かなかった。
私の頭の中は真っ白にも近い状態で、目の前に立つ人が本物なのかどうか、そんなことばかり考えていた。
先に我に返ったのは、彼だった。
「・・・か?」
ああ、この声。何年ぶりに聞いたんだろう。
間違いない、彼だ。確信した途端、心が震えた。
「びっくりした・・・久しぶり。」
「俺も驚いた。こんなところで会えるなんて思ってもいなかったから。」
落ち着いた声が僅かに傘を打つ雨の音に混じる。
見上げた彼は、大人の男性になっていた。
当然だ。もう、彼も私と同じ25歳なんだもの。
「私も。あ・・・手塚クン、今は?」
「先週帰国したんだ。今日は行く所があって。ついでに本屋へ寄ったへ帰りだ。は?」
「私は、たまたま休み。映画を見て帰るところだったの。」
「そうか、偶然だな。」
「ほんと。凄い・・・偶然。」
声が震えていないかしら?
内心、ドキドキしながら彼から目が逸らせない。
彼が帰国していたのは新聞を見て知っていた。
怪我をしてトーナメントを辞退。治療のため、一時帰国。と書かれていた。
その記事を胸の痛みに耐えながら読んだのが先週。
まさかこんなところで会うなんて、夢にも思っていなかった。
日本を代表するプロテニスプレーヤーになった彼は、私とって雲の上の人みたいな存在だから。
「、信号が変わる。渡ろう。」
手塚君の声に信号を見れば、点滅を始めていた。
先に足を踏み出した彼を追って、私も横断歩道に踏み出す。
広い背中を見ていたら少し目の奥が痛くなった。
・・・と、呼んでいいのか?と。ふいに、少し前を歩く手塚君が言った。
意味が分からなくて言葉を捜していると、ちらっと私を振りかえる彼。
「いや、苗字が変わっていては・・・と思っただけだ。」
ああ、と納得した私は思わず笑ってしまった。
あの手塚君が女性に細やかな配慮の出来る大人になっているのが可笑しかった。
「ううん。のままよ、変わってない。」
「そうか・・・なら、よかった。」
私が笑いを堪えているうちに横断歩道を渡りきってしまった。
そこで手塚君は足を止め私に向き直ると「何が可笑しいんだ?」と明らかに分かる怪訝な顔をしていたから余計に可笑しくなった。
笑いやめない私に小さく溜息をつくと、さりげなく「駅までか?」と聞いてくる。
頷けば、「そうか」とだけ言って駅の方角に歩き始める彼。
余計な事は口にしない。
それでも、私の歩幅にあわせて歩いてくれるのが分かる。
久しぶりに会った私と駅まで歩いてくれるつもりなのね。
変わらないね、そういうとこ。
とっても好きだった・・・忘れられない人。
駅までは5分ほど。
ついつい意識しなくても歩くのが遅くなってしまう。
彼の立つ私の左側。頬が、腕や肩が、左側だけ敏感になって変な感じがする。
胸が騒いで、うまい話など浮かびはしない。
相変わらず無口な彼に話題を期待しても無理そうだった。
だから、一番気になっていたことを訊ねた。
「怪我・・・大丈夫なの?」
「知っているのか。誰から?」
「新聞で。ここ最近、高校時代の友達と会う機会もないから。」
「・・そうか。痛めたのは、古傷だ。長い付き合いだから仕方ない。」
「そうなの?」
横顔を見つめていた私と目が合った彼が、ふっとレンズの奥の瞳を緩めた。
「そんな心配そうな顔をするな。大丈夫だ。」
「え?私、そんな顔・・・」
「あの頃も、は同じ顔をして『大丈夫か』と聞いていた。」
「そう・・・だった?」
「ああ」
手塚君が少し笑った。その笑い方、とっても好きだったの。
そうよ、あの頃も心配していた。
胸が潰れるほどに、手塚君の未来を思って祈ったわ。
『私の左手と交換してもいい。神様、手塚君の夢を叶えて!彼からテニスを取り上げないで!』
それほどに、好きだったの。
ただのクラスメイト。けれど、私たちの距離は近いのだと思っていた。
お互い本好きなのが縁で話をするようになった。
誠実で気さくな大石君も加わって、映画や本の話で盛り上がり時間を忘れた。
テニスの試合にも応援に行ったし、時には手作りのクッキーなんかを差し入れたりもした。
無口だとか、冷たいとか噂されていた手塚君だったけれど、少ない言葉数でも飾らず話してくれた。
本の話になると多弁になったりして、ハッと気づいては「すまない、つい」と恥ずかしがるのが微笑ましかった。
私を見つけると瞳を柔らかくして左手を軽く上げる仕草。
甘いものは苦手なのだが・・・と言いながら、差し入れのクッキーをつまんでくれた綺麗な指先。
手塚君が好きなのだと気づくのに、そう時間はかからなかった。
でも想いを告げる勇気もなくて。
怪我で苦しみながらもテニス部を率いている彼の事を思うだけで精一杯だった。
そして卒業。
彼は、アメリカに行くという。
アメリカの有名な医師に診てもらい、そこでプロになるための努力をすると決めていた。
それを教えてくれたのは大石君。
その大石君が卒業前に告げてきたのは『私への想い』だった。
驚いた。私には手塚君しか見えていなかったから、大石君の気持ちなど気づいもていなかった。
口ごもる私に彼は言った。
「手塚もとの事を応援してくれて、」と。
近い、と思った距離は違っていた。
私にだけ見せてくれていると思った表情も仕草も、すべては親友の想い人に向けるものだったのだと知った。
私になど、これからの進路を教える価値も無い。
私は大石君に頭を下げて断わった。
彼は穏やかに笑って綺麗に引いてくれたけど。
私は、もう・・・手塚君の顔を見られなかった。
大事な親友を振った女なのだもの。もう、嫌われてしまったかもしれない。
嫌われるまではいかなかったとしても、もう二度と・・・あの楽しい時間は戻らないのだと思った。
卒業後に開かれた手塚君の送別会にも、旅立つ日の見送りにも行かず・・・こうやって7年近い月日が流れた。
そして、今日。偶然に会うまで、私たちは一度も顔をあわせていなかった。
「また、復帰はできるんだよね?」
「当然だ。もう少し続けたいと思っている。」
「よかった。」
「今でも・・・心配してくれるんだな。」
「私たちの学年には、手塚君てスターだもの。皆、応援もするし心配もしてるわ。」
「皆・・・か」
手塚君が遠くに視線を向けた。その視線の先には駅がある。
もうこんな所にまで来てしまったのかと鼓動が速くなった。
別れたくない!もっと、話していたい!
咄嗟に浮かんだ想いは、急激に膨らんでいって止まることを知らない。
二度と、こんな偶然はないだろう。
彼は日本中の人が知っている有名人で。普段はアメリカにいて。
簡単には会えないし、もう・・・話だって一生できない人かもしれない。
そんなの、イヤ。
だって、私・・・。私は、今も手塚君が好きなんだもの。
忘れたことなど、なかった。
この想い。二度と会えない人なら・・・せめて。
一瞬にして浮かんだ大それた想い。でも、今でなければ果たされない、切羽詰った想いでもあった。
ぎゅっと胃が縮むような緊張感を喉の奥で堰き止めて声を出す。
後悔するぐらいなら、どんなに傷ついてもいい。
「手塚君、私、」
「今日、『想紅(おもいくれない)』という本を買った。」
決死の思いで出した言葉に手塚君の声が重なる。
手塚君は、じっと駅を見つめながら歩を止めた。
「それ・・・」
「知っている。が装丁した本だと知っていて買ったんだからな。これで、3冊目だ。」
「手塚君、まさか」
「1冊目が『月』2冊目が『片恋』。どれもらしい、ものだった。」
あまりのことに言葉が出ない。
彼の傘とは反対の手に握られている袋に、私の装丁した本が入っているなんて。
駆け出しの装丁家が私の仕事。
本の売れ行きを左右するとも言われる装丁だが、
売れっ子ならいざ知らず自分のような装丁家では名前など親戚ぐらいしか知らないはず。
装丁を請け負った本だって、有名どころの作家ではない。若い無名の作家のものばかりだ。
そして、ちゃんとしたハードカバーで装丁した本は、さっき手塚君が口にした3冊だった。
「あの頃も、よく綺麗な色の絵を描いていた。柔らかく淡い・・・透明感のある絵が俺は好きだった。」
好きだった、という言葉に。馬鹿みたいに反応してしまう自分が恥ずかしい。
確かに、彼は私のスケッチブックを覗いては「綺麗だな」と褒めてくれた。
私は気恥ずかしさに赤くなりながらも「ありがとう」と答えたものだ。
デザインの道に進んだもの、ある意味では手塚君に褒められて自信がもてたからだ。
それにしても、無名の私をどうやって知ったのだろう?
「手塚君こそ、誰に聞いたの?私なんか誰も知らないのに。作家さんだって、まだ有名じゃないのよ?」
「そうだな。探すのに手間取った。最初の2冊は手に入らなくて・・・わざわざネットで取り寄せたんだ。」
「そうまでして・・・どうして?」
ゆっくりと私の方に体を向けた手塚君の傘から、雨の雫がバラバラと音をたてて落ちていく。
手塚君が、ひとつ息を吐いた。僅かな躊躇い。
「忘れられなかったからだ。」
何を?と声にならず、唇だけが動く。
「親友が好きだという人を好きになった。自分も好きなのだと、どうしても・・・言えなかった。
親友だからこそ、俺は言うべきだった。アイツは・・・大石は、そんなことで離れていくような奴ではないと知っていたのに。
ずっと。・・・ずっと、後悔していたんだ。大切な人に、何故・・・好きだと伝えられなかったのか、と。」
真っ直ぐに見下ろしてくる彼の瞳が、痛々しい程に深い色で目が離せない。
立ち止まる私たちを人々が次々に追い抜いていく気配がするのに、私には手塚君しか見えていない。
彼以外の音が消えた。
痺れるような感覚に息をするのも苦しいほど。
ああ、手塚君が歪んでいく。
もっと・・・しっかり見ていたいのに、どんどん彼の顔が見えなくなっていく。
「お前の仕事は大石に聞いた。今さら許しを求めた俺に・・・教えてくれたんだ。
告白した時、の悲しそうな顔を見て『もしかして』と思ったのに言えなかった事を許して欲しいと、反対に謝られてしまった。
帰国したのは治療のためだけじゃない。ここで会わなくても、会いに行くつもりだった。
だが・・・偶然に会えた。
いつも思っていたんだ。もしも、めぐり会えたら・・・どんなに傷つこうとも想いを告げようと。」
「俺は、お前が好きだ」
・・・泣かないでくれ。小さな、呟きを聞いた。
背中を雨が濡らしていく。
でも、温かい手が冷えた背中を包んでくれる。
落とした傘は上を向いて転がり、雨の雫を受けて優しい音を奏でていた。
手塚君たら、傘は手放しても私の本は手にしたままで。
強く抱きしめられ肩にあたる本の硬さが心地よくて目を閉じた。
めぐり会えたから。
私も告げよう・・・あなたが好きです。
「めぐり会えたら」
2005.10.20
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