彼の寝室。
ベッド脇のテーブルには、私が装丁した本が置かれていた。
真っ白な雪の中に咲く椿の紅をイメージした『想紅』という名の本。
若い作家さんだったが、私の装丁をとても気にいってくれて嬉しかった。
私自身も思い出のある本。
それは・・・手塚君と再会した大切な日を思い出させるから。
想紅/おもいくれない
「、あ・・・いや、」
呼ばれて振り向けば、名前を呼んでみたけれど何だか慣れずに気恥ずかしい・・・と顔に書いた彼が立っていた。
それでも「荷物を寝室に運んでいいか?」と当然のように聞いてくる。
頷くしかない私の横を大きなスーツケースと共に通り過ぎていく手塚君の背中を見つめながら、
いまだに現実味がなくて夢を見ているようなフワフワした私が居た。
半年前、雨の日本で私たちは再びめぐり会った。
奇跡とも言える偶然に導かれ、長く秘めた想いを打ち明けあってからは急激に距離を縮めていった私たち。
私の知らなかった手塚君は貪欲に私を欲しがってくれた。
時間も、心も、体も。すべては、瞬く間に手塚君の手の中に納まってしまった感じ。
そして、とうとう。私は彼の待つアメリカに渡った。
これは将来への準備というか・・・手塚君なりに考えて私が海外で暮らせるかどうかを試してくれるつもりらしかった。
スーツケースを大きなクローゼットの前に置いた手塚君は、ホッと息をつくと私の前に歩いてきた。
国を跨いでの恋愛をしているから、恋人とはいえ会うのは1ヶ月半ぶり。
彼が日本で肩の治療を受けている間、毎日のように会って想いを深めた。
だからこそ、会えなくなった時間は何もかもが霞みのように消えてしまう儚いものに思えて苦しんだ。
『、こっちに来ないか?1ヶ月でいい・・・俺と暮らしてみるのはどうだろう?』
渡米して2週間もたたないうちに手塚君から誘われた。
見上げた彼の瞳が優しく私を捉える。
壊れ物にでも触れるかのように、そっと伸びてきた手が私の頬を包み柔らかな吐息が触れてくる。
目を閉じれば、触れるだけのキスが一度、二度と繰り返された。
我慢が出来なかった。そう、彼が呟く。
「お前のいない時間が耐えられなかった。
よく7年も耐えたものだと呆れるが・・・・手に入れてしまったら1週間も我慢できなくなってしまった。
仕事もあるのに、すまないと思ってはいるが・・・どうしようもなかったんだ。」
あやされる様なキスを幾つも受けたら立ってなどいられなくて、彼の腕の中に沈みこむ。
ぎゅっと強く抱きしめられたら、そのまま夜の帳に閉じ込められてしまった。
ね、幸せなのに切なくなるわ。
7年は・・・やっぱり長かった。
私の知らない手塚君に出会うたび、知ることが出来た喜びと同時に、今まで知ることが出来なかった寂しさを感じてしまう。
触れてくる指が優しいから。この指で触れてきた誰かに嫉妬してしまう。
あなたの心に住んでいた誰かを探してしまう愚かな女心に、自分自身がうんざりしている。
ただ好きだった。高校生の頃のような純粋に人を想う心がなくなってしまったようで切ないの。
目覚めれば深夜だった。
手塚君は静かな寝息をたてている。
雨の音がする。
耳を澄ませば、雨音が小さく聞こえてきていた。
あの頃。テニス部は雨の日でも長い外の渡り廊下で基礎運動をしていた。
外で腕立て伏せや腹筋などをしているのは1-2年生のレギュラー以外。
レギュラーたちは屋内で厳しい練習が行われている。
でも、彼はいつも後輩達の脇に立っていた。
『次の青学を背負っていく後輩達だ。大事に育てたいからな。』と、およそ高校生らしくない口調で遠くを見つめていた彼。
私は雨が降るたび、後輩達に声をかけている彼を教室に残って見ていた。
天才的なプレーをして、コートで輝く彼を見るよりも好きだった。
見つめていたのは、いつも雨。
凛とした瞳。揺ぎ無い立ち姿。どれも、これも・・・胸が痛いくらい好きだった。
あの頃に戻れたなら。
あの日から、すべてを・・・私が手にしていたなら。
こんなに、切ない想いを抱かなくて済んだのかしら?
手塚君という幻を抱いたまま生きてきた私。
いつもどこかで彼を意識しながら生活していた。
テニスの中継をつい見てしまうのも。
スポーツ医学の記事は目を通してしまうのも。
彼が好きだといった『青』という色に惹かれるのも。
本屋で新刊を選びながら、彼の好みを考えてしまうのも。
すべて、手塚国光という人間に繋がっていた。
恋もした。私だって、誰も知らないわけじゃない。
けれど誰と居ても、思い出してしまうのは・・・止められなかった。
何度も何度も夢を見た。
全く違う恋人の腕の中で、手塚君が雨の中に立つ夢を見て・・・目覚めて泣いた。
「・・・どうした?」
顔をあげれば、眉間に皺を寄せた手塚君が私を見ていた。
レンズを通していない瞳は見慣れていないから、ちょっと目を逸らしてしまう。
「なんでもないの、目が覚めただけ。」
「寂しそうな顔をしている。もう、日本が恋しくなったのか?」
「まさか。そんなことない。雨が降ってるから・・・色々と思い出してただけ。」
「雨?ああ、夜半から降ると言っていたな。」
同じベッドの中で話しているから、僅かな声で会話が出来る。
お互いが囁くような声で会話を交わす静かな部屋に雨音が混じった。
「雨か・・・」
「なに?」
「雨が降ると・・・お前は教室から渡り廊下を見下ろしていたな。」
「知ってたの?」
「ああ。ひょっとしたら俺を?と自惚れてみたりしたものだ。」
「そうだったの?」
「あの時、怖がらずに振り向けば良かったな。振り向いて、階段を駆け上がって・・・抱きしめてしまえば良かった。」
彼の大きな手が、慈しむように髪を撫でてくれた。
優しい瞳が、掠れた声が私を包む。
じっと私を見つめると「いや・・・やめよう」と気持ちを切り替えるように口元を緩めた。
「後悔は、もうしない。
そうしないと、嫉妬でおかしくなってしまいそうだしな。
過去など、いらない。
欲しいのは、と生きる今と・・・これからだ。」
言葉が出なかった。彼が黙り込むと、雨音しか音がなくなる。
けれど、さっきとは違う。
悲しく切ない雨音ではなくなって、優しく包むような雨音に変わっていた。
髪に触れていた大きな手に抱き寄せられて、温かい胸に耳をつければ規則正しい彼の鼓動が心地よかった。
目を閉じて、今を抱きしめる。
これから二人。ひとつずつ、大切なものを重ねていくのね。
過去も気にならなくなるぐらいの想いを積み重ねていって・・・越えていくの。
翌朝、目覚めたら・・・街は明るい日差しに溢れていた。
雨は明け方には止んでしまったのだろう。
木々の雫に陽射しが反射して、どこもかしこもキラキラと輝いていた。
アパートメントの窓を開け、異国の空気を胸に大きく吸い込んだ。
場所など、たいした問題ではない。
私にとっては、彼が傍に居るということが何より大切。
「。パジャマ姿で窓を開けるな。誰かに見られたら、どうする?」
「あ、ゴメンナサイ。こんな上階でも・・・カメラマンに追われたりするの?」
「違う。お前のそんな姿を誰かに見られるのが嫌なんだ。」
「このパジャマ姿を?」
呆れた声を出せば、不機嫌そうな顔の彼がツンと私の鎖骨を軽く弾いた。
「なに?」
「それこそ、想紅だな。」
意味が分からず弾かれた場所に視線を落とせば・・・白い皮膚に赤い痕ができていた。
あ・・・・・
想紅は、ある織物の町が作った色の名前。
雪の中に咲く赤い椿の色。
「想紅/おもいくれない」
2005.10.22
新潟十日町の繊維工業組合が作った1月の色の名前です
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