恋は突然に 5 『マーキング』
「ここ、違っている。」
「え?どこ?」
「問2」
トントンとノートの上で長い指が跳ねる。
筋の浮かぶ男の人らしい手に見惚れてしまいそうになりながら、慌ててノートに目を落とす。
苦手だ、物理。
世の中から無くなってくれないだろうか。
丁寧ながらも容赦なく教えてくれる蓮二クンには悪いけど、理解するより丸覚えの方が早そうだ。
「既に理解するのを諦めている顔だな。」
ズバリ指摘されて、また最初から説明されてしまった私。
頭のいいカレシに勉強を教えてもらえるなんて羨ましいと言われるけれど、ちっとも楽しくないのよ。
まるで家庭教師にでも習っている気分。
出来の悪い生徒を前に根気よく教えようとする蓮二クンは立派だけど、これって恋人の甘さなんて欠片もない。
ただただ疲れきって課題を終わらせ、図書館を出たのは夕方だった。
めったにない部活のお休みを勉強だけで過ごしてしまった・・・
その現実を美しい西日に実感した私。
溜息をついている私の隣で、マナーモードにしていた携帯をチェックしている彼。
「ん?弦一郎から電話があったようだ、珍しいな。」
「何か急用かもしれないわよ?」
「そうだな。」
直ぐに電話をかけ始めた彼の傍から私は離れた。
訊かれてマズイ話ではないと思うが、傍にいるのも悪い気がする。
視線で私を追う蓮二クンに「あっち」と道を隔てた公園を指す。
そこには古ぼけたベンチが並んでいた。
そして私は「了解」と頷いた蓮二クンを残して公園に向かった。
「疲れた〜」
声に出して両手を伸ばす。
課題のことなんか口に出さず、先に映画へ誘っておけば良かった。
今さら後悔しても遅いのだけど、少しぐらい恋人らしいデートをしてくれてもいいのにと思う。
蓮二クンて、本当によく分らない人。
気持ちを言葉にしてくれるかと思いきや、全てを言ってくれるわけじゃない。
唐突に触れてくるかと思えば、普段は完全な『お友達』並の付き合い方だ。
友達から聞かされるノロケ話のカレシ達とは、どうも違う気がする。
比べるにも、ろくに恋愛経験のない私には比べることができない。
彼の『好き』って、どのくらいの『好き』なのかな?
ここ最近、急速に膨らんでいる蓮二クンへの想い。
私が抱える『好き』と蓮二クンの『好き』はバランスが取れているのだろうか。
蓮二クンから視界に入るベンチに腰をおろし、そんなことを考えながら茜色の空を見上げていた。
「、こんなとこで何してるんだ?」
名前を呼んだ人は小学校時代の同級生。
同じテニスクラブに通っていたこともある男の子だった。
中学からは別々の学校になってしまったが、彼もテニスを続けているから時々は試合会場で顔を合わせている。
「久しぶり。びっくりした、会場以外で会うの初めてじゃない?」
「そうか?俺は駅とかで見かけてたぜ。なに、ひとり?」
「あの、・・・ううん。人を待ってる。」
「おっ。まさか、カレシ?」
「・・・トモダチ。」
からかいを含んだような表情で訊かれたせいもある。
でも隠すことでもなかったのに、つい私は嘘をついていた。
彼は「寂しい奴だな」と笑って私の隣に腰をおろしてしまう。
さすがに慌てたけど彼の体で通りの向こうの蓮二クンが見えなくなってしまった。
「さ、カレシいないの?お前、結構モテてたじゃん。」
「いつの話よ。それより、私そろそろ行かなきゃ。」
「え?もう行くのか。せっかく会えたのに。」
「ゴメン。」
「あのさ、もし良かったら携帯の番号教えてよ。」
「え?」
立ち上がろうとした私に彼が自分の携帯を出してきた。
躊躇ったのは一瞬。
答えを出すより先に降ってきた声が私の思考を止める。
「、待たせたな。」
蓮二クンが携帯をポケットに仕舞いながら近付いてきた。
やましいことはないのだけれど、彼に『トモダチ』を待っていると言ってしまった手前、居心地が悪い。
とにかく逃げるが勝ちと立ち上がり、慌てて「じゃあね」と笑顔を作る。
「へぇ・・・友達って、柳だったんだ。」
その言葉を聞いた途端、蓮二クンの目が僅かに見開かれた。
えっと、それは・・・とシドロモドロになる私を黙って見下ろす蓮二クンは、小さく息を吐くといきなり私の手を掴む。
思わず身を引く私の手に長い指を絡めると、淡々とした表情のままベンチに座る彼を見た。
「北浦高校の三宅だったかな?」
「あ、ああ。」
「訂正だ。俺たちは友達ではない。そういうことなので失礼する、行くぞ。」
キッパリと言い切ると、蓮二クンは唖然とする相手を残して私の手を引いたまま踵を返した。
後ろを振り返り謝ろうとしたけど蓮二クンに強く体を引っ張られ、それも出来なかった。
暮れていく空に向かって黙々と歩く蓮二クンの横顔は表情がなくて、私は話しかけることもできない。
怒っているのだろうか、呆れているのだろうか、どちらにしても機嫌を損ねてしまったことだけは確かな気がする。
どう言い訳をすればいいんだろう。
なぜ私は付き合っている人を待っていると答えられなかった?
繋がれた手は温かいのに、蓮二クンの横顔が冷たい。
私は項垂れたまま、彼に引っ張られるようにして歩いた。
突然に蓮二クンが足を止める。
何かと思って顔を上げれば、それは小さな和風雑貨の店の前だった。
「入ろう。」
返事も待たず手を繋いだまま店へと足を踏み入れた蓮二クンは、真っ直ぐ奥の売り場に向かった。
そして再び足を止めたのは、和風の布袋が並んだ棚の前だった。
いい香りがする。
木の箱に納まっている着物柄のような小袋は匂い袋だった。
そこで蓮二クンの手が離れた。
離された手は寂しくて、私は制服の胸元を意味もなく直す。
「お前には桜色が似合う気がする。」
「え?」
「唇が桜色だから。」
久しぶりに口を開いたと思ったら唐突で、なんと反応していいのか戸惑う。
蓮二クンは私の答えなど必要としていなかったのか、柔らかな桜色の生地で作られた匂い袋に顔を近づけて頷いた。
「これにしよう。」
「買うの?」
「マーキングだよ。」
なに、それ?
あっ気にとられる私に少し微笑んで、蓮二クンはレジに向かってしまった。
彼が会計をすませる間、所在ない私は並んだ匂い袋を手にとって匂いを嗅いだ。
なんともいえない和の香りは清々しくて心が落ち着く。
ふと気がついた。
この香りは近くにいる時に感じる蓮二クンの香りだ。
抱きしめられる時、そっと唇を重ねられる時に嗅ぐ彼の香りを思い出し、顔がひとりでに熱くなる。
恥ずかしさに匂い袋を棚に戻し、先に店を出た。
私たち、ちゃんと付き合ってるじゃない。
彼が身にまとってる僅かな香りを感じられるほど傍にいたのに、何を不満に思うことがあったんだろう。
自分が思ってた通りのデートができなかったことに拗ねていたのかもしれない。
蓮二クンに謝ろう。
もしも私が逆の立場だったら、きっと悲しかったと思うから。
「」
背中から声をかけられて、謝ろうと決心して振り返った。
そんな私の前に差し出されたのは桜色の匂い袋。
「これをやろう。」
「私に?」
「いつも身に着けていて欲しい。」
蓮二クンの表情が柔らかいのに少しだけ安心して、差し出された匂い袋を手に取った。
今は季節ではないけれど、桜の花を思い起こさせる優しい色だ。
「ありがとう。とても・・・嬉しい。」
贈られた匂い袋を両手に包み微笑めば、蓮二クンが瞳を細めた。
「これは俺の持つ香りと同じだ。」
「うん。」
「意味が分かっているか?」
「意味?お揃いってことでしょう?」
お揃いの物が持てるのは嬉しいと素直に喜ぶ私を蓮二クンが笑う。
「言っただろう、マーキングだと。」
「どういうこと?」
「から俺と同じ香りがする。つまりは俺のだということだよ。」
瞬きを忘れて固まった私。
そんな私の額を長い指で軽く弾くと、蓮二クンが笑顔で言った。
「俺をトモダチなんて言うから、お仕置きだ。」
ごめんなさいって謝りたかったのに、そんな隙さえ与えない。
外れとはいえ街の中、それも完全には日が落ちてない。
人だって歩いていて、おまけに店の前。
だからお仕置きなんだ。
頭の隅で思いながら重ねられた唇を受け入れる。
匂い袋の香りが強くなった。
恋は突然に5『マーキング』
2008/03/05
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