嘘つきな酔っ払い 乾編 1
『ありがとう、乾。頑張ります。』
からの返信を最後に携帯を閉じた。
目の前には桜の花びらか舞い落ちるディスプレイ。
君を本当に失ってしまた。
椅子に背中を預け天井を見上げれば、無機質な白が目に眩しかった。
我ながら一途な男だと呆れもするし感心もしてる。
結局は、ずっと片想いの恋だった。
口づけても、どんなに強く抱いていても、の心を俺一人のものには出来なかった。
どれほどの焦燥感に駆られたのか、嫉妬したのか、苦しんだのか・・・は知らない。
知らなくていいし、知ってほしくもない。
の心に越前がいることを知っていて恋したんだから仕方ない。
は俺を傷つけてしまったと悔やんでいるようだけど、それは違う。
だって、俺は知っていたんだ。
越前の目がの姿を追っていること、・・・二人が惹かれあっていることを。
ただ越前には竜崎先生のお孫さんがいることを知っていたから許せなかった。
越前はテニス以外には疎いヤツだし、うまく彼女たちの間で立ち回れるタイプじゃない。
竜崎さんと円満に別れることができたならと思ったこともあった。
だけど越前はグズグズしているし、
このままじゃいつかはを泣かせるに違いないと思って俺は先手を打った。
迷っているの心に俺の優しさを注ぎこみ、『俺でもいい』と意図的に思わせたんだ。
俺の狙い通り、は越前を諦めて俺の優しさに落ちてきた。
の幸せを想ってのこと?
いいや、違う。結局は俺のエゴ。
独占欲と嫉妬に駆られて、を自分のものにしたんだ。
は悪くない。
悪いのは横恋慕して長く二人を引き離した俺だ。
「はぁ。なんか泣けるな。」
「何がです?」
独り言に反応があって、俺はそのまま顔を横に捻った。
そこには紙コップのコーヒーと分厚い資料を手にした新人のハナちゃんが立っていた。
「人生って辛いなって思ってね。」
「私も辛いんですよ。
なんか全く予想通りの結果が出ないんですけど、使ってるマウスが健康すぎるんでしょうか?
ちっとも発症してくれないんです!もうちょっと病弱なマウスって手に入りませんか?」
「あのさ、そのコーヒーくれる?
研究対象はともかく、実験内容に問題があるんじゃないの?」
「後で100円くださいよ。
そんな、もう1ヶ月以上やってるのに今さら問題があるって言われても困るんです。乾さん、助けてください!」
薄汚れた白衣姿のハナちゃんは、コーヒー代100円を請求するくせに俺の手が借りたいらしい。
というか彼女は家に帰っているのだろうか?昨日も今日も同じ服を着ていたような気がする。
顔の前で両手を合わせて拝みに入ってる彼女に訊いてみた。
「ハナちゃんさ、何日詰めてるの?」
「さぁ・・・かれこれ三日、いや四日かな?」
「夜は?」
「マウスのヒーター近くの床に寝ています。
あったかいですよ?モーター音が、ちょっとウルサイですけど。」
「・・・食事は?」
「今朝、主任が肉まんを一つくれました。」
「ということは、もちろん風呂も・・・」
「入ってませんけど。あ、でも昨日の夜に研究室のシンクで髪は洗いましたよ?」
「何を使って?」
「そこにあった石鹸ですけど。」
変わり者だ。
俺も相当な変わり者だと周りに言われるが、彼女は輪をかけた変わり者だ。
ちょっと哀れに思ってしまった俺は彼女が胸に抱いている資料に手を伸ばし目を通した。
ふむ、なかなかにマニアックで面白い研究だ。
主任が喜びそうなテーマではあるが・・・さて。
マウスは健康だからこそ研究対象になる、病弱は問題外だ。
となると予測した結果が出ない理由を探してやるしかない。
考え始めるとのめり込んでしまい、さっきまで感じていた喪失感を忘れた。
「色々とすみませんでした。
でも乾さんのアドバイスのおかげで光明が見えたっていうか、業者に電話して病弱なマウスを頼む手間が省けました。」
「そう・・・」
彼女の思考に笑うしかない。
結局ハナちゃんの仕事を手伝った俺は、予定の半分しか仕事を進められなかった。
だけどもう深夜まで残って仕事をやりきる気力もなく、数日ぶりにアパートへ帰るという彼女と一緒に研究室を出た。
空には星、今夜は満月だ。
月明かりの夜道を病原菌について語るハナちゃんと歩けば、彼女のかけている銀縁のメガネがキラキラと光っていた。
人のことは言えないが、そのメガネはどうなんだろう。
余程視力が悪いのか、かなり分厚いレンズだ。
色白だし、大きくも小さくもない形の良い唇をしているのだから磨けばそれなりに可愛いのだろうけど、
石鹸で洗ったというゴワゴワの髪を後ろに束ねていては魅力も半減する。
歳は俺より二つくらい下、つまりは越前と同い年だ。
ひょんなことから、また二人の事を思い出し気分が沈んだ。
「あっ、乾さん!いい所に行きましょう!」
「え?どこ・・・」
「ここです!」
彼女に肘を引っ張られた先、そこは『玉の湯』という名の銭湯だった。
男、女と古典的に書かれた暖簾がはためき、気のせいか石鹸の香りが漂ってきている。
突拍子もない発想に唖然としている俺に「今日のお礼に奢りますよ」と彼女が笑った。
今まで色々なものを他人から奢ってもらったが、銭湯に入るのを奢ってもらったのは初めてだ。
なんで俺が?と思わないでもなかったが、銭湯など初めての俺は好奇心に勝てなかった。
旅先で入る温泉とも、今流行りのスーパー銭湯とも違う。
ハナちゃんの奢ってくれた『玉の湯』は、昔のテレビで見たような古めかしい銭湯だった。
桶を置く音がタイル張りの風呂にカーンと響く。
天井近くは壁がなくて、隣の女風呂に響く湯の音だって丸聞こえだ。
俺は白髪のお爺さんに珍しがられ、戦後の混乱時の話を延々と聞かされるハメになった。
BGMにはハナちゃんの鼻歌がエコーがかって壁の向こうから流れてきていた。
お爺さんの長話に付き合い、すっかりのぼせあがった俺。
ありがたいことにお爺さんにビン牛乳をご馳走になって生き返り、丁寧に挨拶をして銭湯を出た。
すると手にはタオル一枚を握り閉めたハナちゃんがニコニコして待っていた。
「いいお湯でしたね!」
「タオル、持って帰るの?」
「だって高いお金出して買ったタオルですよ?
え、まさか乾さんは買ったタオルを寄付してきたんですか?」
「ああ。あれ薄いし使い捨てかと・・・」
「もったいない!いらないなら私にくれれば良かったのに。
忘れ物だったって、取ってきて下さいよ!」
「・・・嫌だ。中には、まだ爺さんが残ってる。捕まったら話が長いんだ。」
「でも、もったいないし」
あの薄っぺらいタオルを何に使うかは知らないが、とにかくハナちゃんを黙らせなくてはと思う。
風呂にも入ってしまったら、後は飯を食って寝るだけだ。
なら夕飯でも一緒に食べるかと思った。
「ハナちゃん、何か食べて帰ろう。」
「え・・奢りですか?」
「・・・いいけど。」
「行きます!」
金に困っているのだろうか?
いや化粧品や洋服に金をかけているふうでもないし、単にタダ飯が好きなのだろう。
そう結論付けて、俺は普通では女のコとは行かないだろう古びた定食屋にハナちゃんを連れて行った。
なら絶対に浮くだろう小汚い店に、ハナちゃんは絵になるほど馴染んでいた。
彼女は定食屋で嬉しそうにコロッケを頬張りながら、それは熱心にマウス実験について語った。
本当に面白いコだ。
以前、に面白い新人のコがいるんだと話して聞かせたけれど、また新しいネタになると思う。
また会えば・・・の話だが。
きっと越前は独占欲が強い。
を離さないだろうし、俺が近づくのだってイイ顔はしないだろう。
彼女をさらっていった夜だって、酒を飲みながら俺に挑戦的な目を向けていたのに気づかないわけがなかった。
「乾さん」
「ん?ああ、なに?」
「ここ最近、ちょっと元気ないですね。」
「はは。ハナちゃんに心配されるほど元気がないかい?」
「何となくですけど。なにかあったんですか?」
彼女がメガネを上げながら俺の顔を覗き込んできた。
ふわっと石鹸の香りがして気持ちが緩む。
いや、晩酌にと頼んだビールのせいかもしれない。
「実はね、大失恋したんだ。」
「それ・・・バイオの飯山さんですか?」
「違う、違う。彼女とは何もない。君も、誰も知らない人だよ。
中学からの同級生でね。ずっと・・・馬鹿みたいに好きだった人だ。」
定食屋のテレビからはバラエティー番組の笑い声が引っ切り無しに流れている。
ハナちゃんは真顔でジッと俺の顔を見てから小さく言った。
「奇遇ですね。実は・・・私も今日大失恋したんです。」
「今日?研究所のヤツかい?」
「まぁ、そうです。」
「同じ職場だと辛いね。まさか主任とか?」
「あそこまで年上趣味じゃありません。でも、これ以上はノーコメントで。」
「マウスの実験に悩みながら失恋までしたのか。大変だったね。」
「マウスよりショックです。」
急に失恋を思い出したのか、ハナちゃんが俯いて鼻をすすった。
失恋したわりには銭湯で鼻歌を歌っていたのだから、まぁ大丈夫なんだろう。
「一杯、飲む?」
「すみません」
俺は定食屋のおばちゃんにグラスを頼んで、彼女のためにビールをついでやった。
溜息をつきながらも、彼女は一気にグラスをあけた。
「ま、元気出して。そのうち君にもステキな人が現れるだろう。」
「乾さんもですよ。元気出してくださいね。」
「君を見てると、なんか元気が出たよ。」
「そうですか?」
「うん。くよくよするのが馬鹿らしくなる。」
「それ褒めてます?」
「もちろん。」
ハナちゃんは泣き笑いみたいな情けない顔をして残りのコロッケをかじった。
ウン。失くしたものは仕方ない。
のためにも・・・俺は俺の幸せを見つけなくちゃね。
偶然だったけれど、ハナちゃんのおかげで俺は気持ちを落ち着かせる事ができた。
「嘘つきな酔っ払い 乾編 1」
2006.11.22
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