『なぁ、遣らずの雨って知っちょるか?』
『ヤラズノアメ?』
降り続く雨に肩を寄せ合った軒下で、空を見上げる仁王君の横顔に聞き返した。
『帰ろうとする恋しい人をひきとめる雨のことじゃ。』
『そうなんだ、』
『』
『うん?』
『お前さん、真田のことは諦めんしゃい。』
咄嗟に言葉も出ない私に仁王君の視線が向けられた。
いつも鋭く油断ない瞳の彼が、じっと私を見つめる。
『お前さんのことは俺が引き受ける。じゃから、真田のことは諦めんしゃい。
そうでもせんと一人で泣く事になるじゃろ?』
雨脚が強くなってきた中でも仁王君の声はハッキリと聞こえた。
それは、そう。甘くも何もなく。私には絶望にも近い言葉だった。
遣らずの雨 1
「テニス部の真田君にカノジョがいたんだって。」
学内に噂が広がるのは早かった。
耳を疑ったのは本当。青天の霹靂の意味を実感するのに、そう時間はかからなかった。
なんで?弦一郎はテニス一筋で恋なんて見向きもしないはずよ。
カノジョなんて作るはずがない。
全国大会を目指して、そんなものに時間を割く余裕なんてないはずだもの。
何度も打ち消した事実は、柳君の言葉で裏づけされてしまった。
「お前も知らなかったのか。実は、俺も知らなかったんだ。」
「じゃあ・・・本当だったの?」
「この前、休日の部活に現れた。弦一郎は俺たちに紹介もせず、直ぐに帰してしまったが・・・
それが噂になったのだろう。」
「そう・・・」
「。弦一郎にも色々と事情があるようだ。ショックだろうが、大丈夫だ。少し、時間が必要らしい。」
穏やかな柳君の声も私の耳には届いていなかった。
足元をすくわれたような、不安定な状態で私はグラグラと揺れていた。
弦一郎を待つように言われた教室から飛び出して、何も考えられずに学校から逃げた。
駅に向かっている途中で雨が降り出して、でも雨を避ける気持ちにもならなくて。
冷たい雨に打たれながら歩いていたら、後ろから肘を引っ張られた。
それが仁王君だった。
「。なに、ぼぉーっとしとるんじゃ。行くぞ、」
「あ、うん。」
「今日は温かいのう。たまには外で食うか。」
言うなり仁王君は躊躇いもなく私の手を掴んで歩き出す。
それじゃなくても目立つ仁王君に手を引かれて歩く姿は目立ちすぎる。
焦って手を引きもどす私の力など軽がるとねじ伏せると「照れんでよか、」と明るく笑った。
「おっ、ええところに」
仁王君の呟きに顔を上げれば、廊下の向こうに柳君ともう一人。
その姿を見てしまっただけで途端に跳ねる鼓動が悲しい。
「お二人さんも昼飯か」
「仁王、これは?」
柳君が眉間に皺を寄せて窺うように私の顔を見る。
ぎゅっと今まで以上に強く握られた手は離されないまま痛いほどだ。
「俺は今からカノジョと楽しい昼食じゃけ。」
「カノジョ?」
柳君の問いかけに仁王君がケラケラと軽く笑う。
「そうじゃ。は、俺のカノジョになったんじゃ。柳も・・・真田といえども、俺の恋人にちょっかい出したら許さんぜ。」
「本当か、?」
柳君に尋ねられ恐る恐る視線を上げた先には、刺すように見つめる弦一郎の瞳があった。
瞬きも出来ないほどの強い視線に息を詰める。
唇を震わせながら弦一郎と見詰め合ったのは数秒もあっただろうか。
急に強く手を引かれ肩を抱かれた。
「なんなら証拠をお見せしましょうか?、キスでもするかのう。」
おどけたように言いながらも肩を掴まれた力は強く、私は痛みに顔をしかめる。
弦一郎の影が揺れた。すっと、私の隣を無言で通り過ぎていく。
あっ、という顔をした柳君が弦一郎を追う仕草を見せたが立ち止まり仁王君と私を見据えた。
「どういうつもりだ?お前たちの考えていることは理解しかねる。」
「なんも。見ての通りじゃ。」
「・・・はやまった事を、」
「柳。早う副部長さんを追わんと部室の備品が破損するぜよ。」
ぐっと言葉に詰まった柳君は溜息をつくと「失礼する」と私達の横を走り去った。
弦一郎に知られてしまった。
どうしようもない罪悪感に泣いてしまいそうになる。
あの、柔らかな時間は二度と戻ってこない。それが、ただ悲しかった。
裏庭にサンドウィッチとオニギリを並べて座る。
黙って紙パックのストローを取り出していたら、ポンポンと髪を撫でられた。
顔を上げれば逆光の仁王君が、すまなそうに微笑んでいた。
「そんな悲しそうな顔しなさんな。真田の顔、見たか?大丈夫じゃ、きっと。」
「仁王君?」
「ええから。詐欺師の異名を持つ俺に任せんしゃい。まぁ、瓢箪から駒でも俺はいっこうにかまわんが。」
「どういう意味?」
「はのままでええっちゅうことじゃ。」
「でも、私はまだ弦一郎が、」
言いかけた唇に仁王君の人差し指が伸びてきた。瞳を細めた彼が、ふっと口の端で笑う。
「人の心が簡単に変わるもんじゃないことぐらい知っちょるよ。
は可愛いの。けど、自分を追い詰めすぎじゃ。もっと楽にして、俺にも甘えたらええのに。」
言うと人差し指に触れていた指は頬に滑っていき、耳元の髪を撫でて去っていった。
それから後は何事もなかったように明るく食事する仁王君がいて、私は何も言えなかった。
その頃、部室では激しくロッカーを閉める音が響いていた。
「弦一郎、ロッカーが壊れる。」
「・・・何故だ?」
「何故も何も、見ての通りだ。」
搾り出したような真田の声に、柳は冷静に答えた。
熱く激しい性格だと周囲から見られている真田だが、それはテニスに関することだけだ。
実際の彼は冷静で物事を深く考えるタイプ。
私事で声を荒げたり、自分の感情をコントロールできないような人間ではない。
その真田が明らかに動揺して荒れている。
柳を振り返った真田の瞳が熱く揺れていた。
「何がどうなってああなったのかは分からないが、と仁王が付き合い始めたということだろう。」
「だから、何がどうなったんだ!」
「弦一郎、落ち着け。まずは、お前自身のことを片付けないと前には進めないのではなかったか?」
「分かっている!」
部室の机を思いっきり叩く音に重なった言葉に、柳は溜息をついた。
「俺が思うに・・・お前たちは間違いなくお互いが想い合っていただろう。
お前がに隠して、かたをつけ様とした事が明るみになってしまったのが問題だった。
例の許婚が学校にまで押しかけてきたのが誤算だったな。あの噂が広がって、は酷く動揺していた。
弦一郎の口から説明してやれば良かったのだ。グズグスとしているから、こんなことになった。」
「俺の口からだと?
『俺には親が決めた許婚がいるが、そのうちに無かった話にするから気にせず付き合ってくれ』と言うのか?
そんないい加減な事をに言えると思うか?それは、俺自身が許せん。」
「付き合わずとも、説明しておくだけで状況は変わったと思うが・・・お前の性格は理解しているつもりだ。」
「はどういうつもりだ?俺に噂が立ったからといって、すぐ仁王へ乗り換えたのか?
俺はにとって、その程度の存在だったということか?」
「・・・女心は分からんが。弦一郎は、こうなってもに対する気持ちは変わらないのか?」
の相手が仁王というのに引っかかりを感じつつ、柳は真田の気持ちを確認する。
厳しい表情を浮かべ手にした部の資料を皺になるほど握り閉めている真田に、柳は予想通りの答えを見い出した。
「弦一郎。とにかく、お前は許婚殿の件を片付ける事だ。にはの気持ちがあるだろう。
カッカッしても仕方あるまい。とにかく部内にイライラを持ち込むなよ。特に、仁王には」
「・・・当然だ。」
深呼吸をした真田が背筋を伸ばして部室を出る後ろに続きながら、柳は考える。
仁王は何を考えている?
曲者とも詐欺師とも言われる駆け引き上手の仁王と、ただ真っ直ぐな真田。
この二人の間で、は何を考えているのだろう。
薄暗い部室から出た外は、ただ明るく陽射しに溢れていた。
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